クロージング直前に従業員及び取引先の引継条件の変更を求められた場合の対応
この記事の位置付け
クロージングの直前に従業員及び取引先の引継条件の変更を求められた場合には、契約上の義務の有無を判断したうえで、応じることによる法的な危険を見極める必要があります。本記事では、売主の立場から対応を整理いたします。
最終契約の締結後に買主から価格の変更を求められた場合の対応については別の記事で扱っています。あわせて御覧ください。
株式譲渡契約に調印し、決済と株式の引渡しを行う期日も決まり、あとは当日を待つばかりという段階に入ったところで、買主から連絡が入ることがあります。従業員の雇用の継続について契約書に書いたとおりには扱えなくなった、退職金の原資は売主の側で負担してほしい、主要な取引先から取引の継続に同意する書面を取り付けてから決済をしたい、といった内容です。多くの場合、その連絡は電話や電子メールで、担当者から軽い調子で伝えられます。
売主の側から見れば、ここまで何か月もかけて進めてきた話です。従業員には決済の直前に説明することを予定しており、取引先への挨拶回りの段取りも組んでいます。ここで話が壊れれば、社内に噂が広がり、次の買主候補を探すにも支障が出ます。そうした事情を買主も分かっていますので、この段階での申入れは、売主にとって断りにくい形で持ち込まれます。断りにくいからこそ、求めに応じる前に、契約上どのような立場に立っているのかを確かめる必要があります。
本稿では、株式譲渡契約の締結後、クロージングの直前になって、買主から従業員及び取引先の引継ぎに関する条件の変更を求められた場合の対応を、売主の立場を中心に整理します。よく求められる変更の類型、応じる義務が契約上あるかどうかの判断、応じた場合に生じ得る危険、売主が採り得る対応、買主がこれを理由にクロージングを拒む場合の対応、そして交渉の記録の残し方と書面の作り方までを順に見ていきます。
クロージングの直前に条件の変更を求められるという場面
株式譲渡契約の締結からクロージングまでの間には、通常、数週間から数か月の期間が置かれます。この期間は、前提条件を満たすための作業を行う期間として設けられています。ところが実務では、この期間が、買主が調印後に気づいた事柄や、社内で新たに出た意見を売主にぶつけてくる期間にもなり得ます。売主としては、まずこの期間が何のための期間であるのかを、契約書に即して確認することから始めます。
調印からクロージングまでの間に買主の側で起きていること
買主の社内では、調印の後も検討が続いています。デュー・ディリジェンス、すなわち買主による調査の報告書が正式に出てくるのが調印の後になる例もありますし、買主の親会社や金融機関の審査が調印の後に本格化する例もあります。従業員の年齢構成や賃金水準を改めて計算し直した結果、人件費の見込みが当初の想定と違っていたことに気づくこともあります。取引先との契約書に、支配権の異動があった場合に相手方が解約できる旨の条項が入っていることが、調印の後に判明する例も見受けられます。
売主の側に働く心理的な圧力
この段階の売主には、強い圧力がかかります。譲渡代金で借入金を返済する予定を立てていれば、期日の遅れは資金繰りに直結します。従業員に対して、決済の日に説明を行うと決めていれば、その段取りも動かせません。買主の担当者が「この点さえ整えば予定どおり進みます」という言い方をすれば、売主は、多少の譲歩で話がまとまるならばと考えがちです。しかし、この段階で一つ応じると、次の求めが続くことがあります。最初の求めに対してどのような姿勢で応じるかが、その後の交渉の枠組みを決めます。
まず開くべきは株式譲渡契約書のどの部分か
連絡を受けたその日のうちに、株式譲渡契約書の次の部分を確認します。第一に、クロージングの前提条件を定めた条項です。買主が決済を行う義務を負うために何が満たされている必要があるのかが、ここに列挙されています。第二に、調印からクロージングまでの間の売主の誓約事項を定めた条項です。この期間に売主が行うべきこと、行ってはならないことが書かれています。第三に、従業員の処遇及び取引先の取扱いについて定めた条項があれば、その文言です。第四に、契約の変更は書面によることを求める条項の有無です。買主の求めが、これらのどこにも根拠を持たないのであれば、それは契約上の権利の行使ではなく、新たな交渉の申入れです。
買主から求められることの多い変更の類型
クロージングの直前に持ち込まれる求めには、いくつかの決まった型があります。型を知っておくと、その求めが何を目的としているのかを見抜きやすくなり、応じる場合の条件も設計しやすくなります。以下では、従業員に関するものと取引先に関するものに分けて整理します。いずれも、譲渡代金1億円から10億円程度の同族経営の会社で実際に見られる類型です。
一定の従業員の雇用の継続に関する約束の撤回又は縮減
株式譲渡契約には、クロージングの後の一定期間、従業員の雇用を継続する旨や、労働条件を不利益に変更しない旨の条項が置かれることがあります。買主は、この期間を短くしたい、対象となる従業員の範囲を限定したい、あるいは条項自体を削除したいと求めてくることがあります。理由として挙げられるのは、事業の再編の必要、想定より人件費が重いこと、特定の部署の業務量が見込みを下回ることなどです。売主にとっては、従業員に対して説明してきた内容と直接に食い違う点であり、最も慎重な検討を要する類型です。
退職金及び賞与の負担を売主に転嫁する求め
クロージングの日をまたぐ退職金及び賞与の負担をどう分けるかは、本来、契約書で定めておくべき事項です。しかし、定めが曖昧なまま調印に至る例は少なくありません。買主は、クロージングの直前になって、クロージングまでの期間に対応する退職金の引当て相当額を譲渡代金から控除したい、直近の賞与は売主の負担で支給しておいてほしい、役員退職慰労金は売主が全額を負担すべきである、といった求めをしてきます。金額の根拠となる計算書を提出させ、対象期間と計算方法を確認しなければ、応否の判断はできません。
労働条件の変更をクロージングの前に売主に行わせる求め
買主が、自社の制度に合わせるため、就業規則の変更、賃金体系の見直し、退職金規程の廃止又は縮減、諸手当の廃止といった作業を、クロージングの前に売主の手で済ませておいてほしいと求めることがあります。買主としては、自らが実施すれば従業員の反発が新しい経営陣に向かうため、それを避けたいという事情があります。しかし、これは売主にとって最も危険な類型です。労働条件の不利益な変更には法律上の制約があり、その効力が争われた場合の責任は、変更を行った側に及び得るからです。
役員の処遇の変更
売主である経営者自身や、その親族である役員の処遇についても、直前の求めが出ます。当初は顧問として2年間の委嘱を予定していたところ、期間を6か月に短縮したい、報酬月額を引き下げたい、退任の時期を早めたい、といった内容です。役員の任期の途中での解任については、正当な理由がない場合に会社に対する損害賠償の請求が認められ得る旨が会社法第339条第2項に定められていますが、売主が自ら合意して退任する場合には、その主張の余地は失われます。処遇の変更に応じる場合には、その点も含めて検討します。
取引先に関する求め
取引先については、二つの類型が代表的です。一つは、特定の取引先との契約を解消することをクロージングの前提条件に加えたいという求めです。売主の親族が経営する会社との取引、採算の合わない取引、買主の既存の取引先と競合する取引などが対象になります。もう一つは、主要な取引先から、支配権の異動の後も取引を継続する旨の同意書を取り付けることを、売主の義務としたいという求めです。取引基本契約に、支配権の異動を解約事由とする条項が置かれている場合に持ち出されることが多い求めです。いずれも、売主が単独では実現できない事柄を売主の義務とする点に特徴があります。
その求めに応じる契約上の義務があるかどうかの判断
次に行うのは、買主の求めが契約上の権利に基づくものか、契約に定めのない新たな申入れかを切り分ける作業です。この切り分けを飛ばして交渉に入ると、売主は、本来は負っていない義務について値切り交渉をすることになります。切り分けは、条項の文言を一つずつ読むという地道な作業によって行います。
クロージングの前提条件の条項を読む
前提条件の条項には、通常、表明保証が重要な点において真実かつ正確であること、売主が誓約事項を履行していること、事業に重大な悪影響を及ぼす事由が発生していないこと、必要な許認可や第三者の同意が取得されていることなどが列挙されています。買主の求めが、この列挙のいずれかに対応しているかを確認します。たとえば「主要な取引先の同意書の取得」が前提条件として明記されていないのであれば、買主はその不取得を理由に決済を拒むことはできないのが原則です。列挙されている場合には、その取引先の範囲がどう定義されているか、書面の様式まで指定されているかを確認します。
誓約事項の条項を読む
調印からクロージングまでの売主の誓約事項には、通常の業務の範囲を超える行為を行わないこと、重要な契約を締結又は解除しないこと、役員及び従業員の報酬を変更しないこと、といった内容が置かれます。注意すべきは、この条項の多くが、売主に対して現状を維持することを求めるものであり、新たに何かを実施することを求めるものではないという点です。買主が就業規則の変更や取引先との契約の解消を求めているとすれば、それはむしろ誓約事項に反する行為を売主に求めていることになりかねません。この点は、拒否の理由として明確に示すことができます。
契約に定めのない事項の求めであるかどうか
契約書のどこにも根拠がない求めであれば、それは契約の変更の申入れです。株式譲渡契約に、契約の変更は当事者双方が記名押印した書面によらなければ効力を生じない旨の条項が置かれていることが通常であり、その場合、売主が応じなければ契約の内容は変わりません。買主の担当者が「当然のことです」「通常はこうしています」といった言い方をしても、契約書に書かれていない以上、応じるかどうかは売主の判断です。応じない場合に売主が契約違反となることはありません。
表明保証との関係を確認する
買主が、従業員に関する表明保証の違反があると主張しながら条件の変更を求めてくることもあります。未払残業代がある、労使協定が適切に締結されていない、社会保険の加入に漏れがある、といった主張です。この場合には、主張されている事実が実際に存在するのか、存在するとして表明保証の対象に含まれるのか、デュー・ディリジェンスで開示済みの事項として買主の請求が制限される仕組みになっていないか、補償の限度額や最低請求額の定めがどうなっているかを確認します。表明保証違反の主張が根拠を欠く場合には、それを前提とした条件の変更に応じる理由もありません。
求めに応じた場合に生じ得る危険
買主の求めに応じることが結果として合理的である場合もあります。しかし、応じる前に、その行為が売主自身にどのような責任をもたらし得るかを検討しておく必要があります。特に、クロージングの前に売主の手で労働条件を変更する行為と、取引先に対して譲渡の事実を説明する行為には、注意を要する点があります。以下の記述は一般的な整理であり、実際の評価は事案により異なります。
クロージングの前に労働条件の不利益変更を行うことの危険
労働条件の変更については、労働者と使用者の合意によって変更できる旨が労働契約法第8条に定められています。他方で、就業規則を変更することにより労働者の不利益に労働契約の内容を変更することは、原則としてできない旨が同法第9条に定められ、変更後の就業規則を労働者に周知させ、かつ変更の内容が合理的である場合には変更後の内容が労働条件となる旨が同法第10条に定められています。つまり、個別の同意を得るか、変更の合理性が認められることが必要です。譲渡の直前という時期に、譲渡の事実を説明しないまま同意書に署名を求めた場合、その同意が自由な意思に基づくものであったかが後に争われる余地があります。争いが生じた場合、変更を行った当時の使用者は売主が支配していた会社ですから、その責任が売主の表明保証や補償を通じて売主に及ぶ構造になっていないかを確認します。
取引先への説明が秘密保持や独占禁止法上の問題を生じ得ること
主要な取引先から同意書を取り付けるためには、株式の譲渡が予定されていること、譲受人が誰であるかを説明せざるを得ません。ここで二つの問題が生じます。一つは秘密保持の問題です。株式譲渡契約及びその前段階の秘密保持契約には、取引の存在自体を秘密とする旨の条項が置かれていることが通常であり、開示先の範囲と開示できる内容を確認しないまま説明を行えば、売主が契約に違反することになります。もう一つは、取引先が買主の競争相手である場合や、買主が取引先の選別に関与する場合に、独占禁止法上の観点から慎重を要する点です。企業結合について届出を要する規模の取引では、待機期間が満了する前に買主が対象会社の事業活動の決定に関与することは差し控えるべきものとされています。取引先との契約の解消を買主の指示で行うことは、この点で問題を生じ得ます。
従業員の動揺による事業価値の毀損
従業員に対する説明の時期と内容は、中小企業のM&Aにおいて成否を分ける要素です。クロージングの直前に、労働条件の変更の同意書に署名を求めたり、雇用の継続の約束が変わったことを伝えたりすれば、従業員の間に不安が広がります。中核となる従業員が退職を申し出れば、事業の価値そのものが下がり、買主から改めて譲渡代金の減額を求められるという悪循環に陥ります。買主の求めに応じるかどうかを検討する際には、その求めを実行した場合に従業員に何をどう説明することになるのかを、具体的な文言のところまで想定しておきます。
売主自身が表明保証違反の状態を作り出してしまう危険
見落とされがちなのが、買主の求めに応じたことによって、売主が自ら表明保証に違反する状態を作ってしまう場合があるという点です。たとえば、重要な取引先との契約を解消すれば、主要な取引契約が有効に存続している旨の表明保証に抵触し得ます。就業規則を変更すれば、労働関係の法令を遵守している旨の表明保証や、誓約事項に定められた現状維持の義務に抵触し得ます。買主の求めに応じる場合には、その行為について表明保証及び誓約事項の適用を除外する旨を、必ず書面で明記します。
売主が採り得る対応の選択肢
選択肢は、拒否するか応じるかの二者択一ではありません。実務では、その中間に複数の選択肢があり、それらを組み合わせることで、期日を守りながら売主の負担を抑えることができる場合があります。以下では、5つの選択肢を、使いどころとあわせて示します。
拒否する
契約に根拠のない求めであれば、拒否は正当な対応です。拒否をする際には、感情的な言い方を避け、書面で理由を示します。示すべき理由は、当該事項が株式譲渡契約の前提条件として列挙されていないこと、誓約事項の内容と整合しないこと、契約の変更には双方の書面による合意を要すること、の3点です。そのうえで、予定どおりの期日に決済を行う用意がある旨を明記します。この書面は、後に買主が決済を拒んだ場合に、売主の側に履行の意思があったことを示す資料になります。
条件付きで受諾する
求めの内容が受け入れられるものであれば、条件を付して受諾します。条件の付け方には型があります。第一に、当該事項の実施に伴って生じた責任について買主が売主を補償する旨の定めを置くことです。第二に、当該事項の実施によって生じた事実について表明保証及び誓約事項の適用を除外する旨を定めることです。第三に、これ以上の条件の変更を求めない旨を買主に確約させることです。第四に、決済の期日を確定させ、その期日に決済を行う買主の義務を明記することです。この4点を欠いた受諾は、譲歩だけをして得るものがない結果になりがちです。
クロージングの後の対応に振り替える
買主が求めている事柄の多くは、クロージングの後に買主自身が行うことができるものです。就業規則の変更も、取引先との契約の解消も、株式を取得して支配権を得た後であれば、買主が自らの判断で実施できます。したがって、「その事項はクロージングの後にお進めください。当方は必要な引継ぎと説明に協力します」という返答が、最も無理のない着地点になることが多くあります。売主が協力する範囲を、従業員への紹介、取引先への同行、資料の提供といった形で具体的に限定しておけば、売主が責任を負う場面を避けながら、買主の実質的な目的に応えることができます。
費用の分担を合意する
金銭で調整できる求めであれば、金額の話に置き換えます。退職金及び賞与の負担については、クロージングの日を基準として、それ以前の在職期間に対応する部分を売主が負担し、それ以後を買主が負担するという分け方が分かりやすい整理です。金額を確定させるには、対象となる従業員の氏名を伏せた一覧、在職期間、算定の基礎となる賃金、退職金規程の定めに基づく計算書を用意します。譲渡代金からの控除という形で処理する場合には、控除の金額と、それ以上の請求を行わない旨を必ず書面に残します。
期日を変更する
作業の量から見て期日までに整えることが難しい場合には、期日そのものを動かすことも選択肢です。期日を動かす場合には、新しい期日を特定の日付として定め、その期日に決済を行う買主の義務を明記し、さらに期日を動かす場合の手続を定めます。あわせて、期日の変更に伴って生じる金利、賃料、人件費といった費用の負担者を決めます。期日を「調整のうえ別途定める」といった形にすると、決済の時期が定まらないまま売主が拘束される状態が続きますので、この書き方は避けます。
買主が条件の変更を理由にクロージングを拒む場合の対応
売主が拒否した結果、買主が決済に応じないという態度を示すことがあります。この局面では、買主が何を法的な根拠として決済を拒んでいるのかを、まず特定します。根拠のない拒絶であれば、売主には契約に基づく手段があります。
前提条件の不充足の主張なのか、単なる交渉なのかを特定する
買主に対し、書面で次の点を質します。決済を行わない理由が株式譲渡契約に定められた前提条件のいずれの不充足によるものか、その前提条件の条項番号はどれか、不充足であると判断した具体的な事実は何か、という3点です。この照会に対して条項を特定した回答が返ってこない場合、買主は法的な根拠なく決済を拒んでいることになります。回答があった場合には、その条項の文言と主張されている事実とを突き合わせ、当てはまるかどうかを検討します。
催告を行い、期限を設定する
買主に決済の義務があると判断される場合には、書面により、期限を定めて決済を求めます。当事者の一方がその債務を履行しない場合において、相手方が相当の期間を定めて履行の催告をし、その期間内に履行がないときは契約を解除することができる旨が民法第541条に定められています。催告の書面には、決済の日時と場所、売主が引き渡す株券又は株主名簿の名義書換に必要な書類、売主が用意する取締役の辞任届などを列挙し、売主の側の準備が整っていることを明らかにします。送付は、内容証明郵便によることが一般的です。
契約の解除と違約金の請求
催告をしても決済が行われない場合には、契約の解除を検討します。株式譲渡契約に、相手方の責めに帰すべき事由によって契約が解除された場合の違約金の定めが置かれていれば、その金額を請求します。定めがない場合には、債務の本旨に従った履行がされないことによる損害の賠償を請求することになり、この点は民法第415条第1項に定められています。もっとも、損害の金額を立証することは容易ではなく、支出した専門家の費用、譲渡が遅れたことによる金利の負担、再度の売却活動に要する費用などを、領収書や契約書によって積み上げる作業が必要になります。回収できる金額は事案により異なります。
訴訟その他の手続に至る場合の見通し
買主に株式の引渡しを受けて代金を支払う義務があると考える場合、その履行を求める訴訟を提起することも理論上は可能です。しかし、判決を得るまでに要する期間の間に、対象会社の事業は変化し続けます。従業員が退職し、取引先が離れれば、勝訴しても当初の価値は残っていません。したがって、実務では、解除をしたうえで違約金又は損害の賠償を求めつつ、並行して次の買主候補を探すという判断がされることが多くあります。どの手段を選ぶかは、対象会社の資金繰り、従業員の状況、他の買主候補の有無によって変わります。
交渉の経過の記録の残し方
この局面での交渉は、後に責任の所在が争われる可能性を含んでいます。買主が「売主が同意した」と主張し、売主が「検討すると述べただけである」と主張するという食い違いは、実際によく起こります。記録は、争いになってから作るものではなく、その日のうちに作るものです。
口頭のやり取りを当日中に書面化する
電話や面談で求めを受けた場合には、その日のうちに、買主宛ての電子メールで内容を要約して送ります。書く内容は、日時、出席者又は通話の相手方、求められた事項の内容、売主が述べた内容、次の期限の4点です。文末は「以上の理解に相違があれば、ご指摘ください」とします。返信がないまま進んだ場合、この電子メールが当時のやり取りを示す資料になります。売主の側だけで作成したメモは、相手方に送っていない限り、証拠としての力が弱くなります。
誰の求めであるかを特定しておく
クロージングの直前の求めは、買主本人ではなく、M&A仲介業者の担当者や買主の顧問から伝えられることがあります。その場合、それが買主の正式な申入れであるのかを確認します。確認の方法は、買主の代表者又は担当役員を宛先に含めた電子メールで、「貴社からのご要望として承りました」と記載して送ることです。後に買主が「そのようなことは求めていない」と述べる事態を避けることができます。また、伝達の過程で内容が変わっていないかを確かめる意味もあります。
M&A仲介業者を経由する場合の注意
M&A仲介会社が売主と買主の双方に関与している場合、その担当者は、話をまとめる方向で動きます。売主に対して「ここは飲んだほうがよい」という助言がされることもあります。その助言が合理的である場合もありますが、助言に従った結果として売主が負う責任は、売主が負います。したがって、M&A仲介業者を経由したやり取りについても、内容を売主自身の名前で買主に確認する手順を省かないことが大切です。あわせて、M&A仲介契約に定められた報酬の発生時期を確認しておきます。期日が延びた場合や契約が解除された場合の報酬の取扱いが、判断に影響することがあります。
変更に合意する場合の書面の作り方
検討の結果、買主の求めの一部又は全部に応じることとした場合には、必ず書面を作成します。電子メールのやり取りだけで済ませると、合意の範囲が不明確になり、後に別の請求を受ける余地を残します。書面の名称は、覚書、変更契約書のいずれでも構いません。株式譲渡契約に、変更は書面によるべき旨の条項があれば、その形式に従います。
覚書に盛り込む基本的な事項
覚書には、次の事項を順に記載します。第一に、原契約である株式譲渡契約の締結日と当事者を特定する記載です。第二に、変更する条項の番号と、変更後の文言です。第三に、変更に伴って売主が実施する事項があれば、その内容、期限、実施の方法です。第四に、費用の負担者と金額です。第五に、クロージングの期日です。第六に、この覚書に定めるほか原契約の内容は変更されない旨の確認です。第七に、当事者双方が、この覚書の締結をもって、当該事項に関して相互に他に何らの請求も行わない旨の確認です。
書き落としやすい条項
実務で書き落とされやすいのは、次の4点です。1点目は、売主が実施する事項について、表明保証及び誓約事項の適用を除外する旨の定めです。2点目は、実施した事項に起因して第三者から請求を受けた場合に買主が売主を補償する旨の定めです。従業員から労働条件の変更の効力を争われた場合や、取引先から契約の解消について請求を受けた場合が想定されます。3点目は、売主が誠実に努力したにもかかわらず結果が得られなかった場合の取扱いです。取引先の同意書のように、相手方の意思に依存する事項については、結果を保証する義務ではなく、努力する義務にとどめる書き方を検討します。4点目は、これ以上の条件の変更を求めない旨の確約です。
従業員及び取引先に対する説明との整合を取る
書面を作ったら、その内容を、従業員及び取引先に対して実際にどう説明するかを、買主と一緒に決めます。決めるのは、説明を行う日時、説明を行う者、説明の場に買主が同席するかどうか、配布する文書の文面、質問が出た場合に誰が答えるか、という点です。特に、雇用の継続や労働条件について従業員から質問が出た場合の回答は、事前に文面を一致させておきます。売主と買主とで説明の内容が食い違えば、従業員の不信を招き、退職の申出につながります。取引先に対しても同様に、説明の時期と範囲を決め、秘密保持の条項に反しない形にします。
よくあるご質問
ここでは、クロージングの直前に条件の変更を求められた売主から実際に寄せられることの多いご質問と、その考え方を整理します。個別の事案では、株式譲渡契約の文言、対象会社の事情、買主の属性によって結論が変わり得ますので、あくまで一般的な整理としてお読みください。
買主の求めを断ると、契約違反になるのでしょうか
株式譲渡契約に定めのない事項について応じないことは、契約違反にはなりません。契約の変更は、当事者双方の合意によって初めて効力を生じます。多くの株式譲渡契約には、変更は双方が記名押印した書面によらなければ効力を生じない旨の条項が置かれています。したがって、まず確認すべきは、買主が求めている事項が契約書のどこに書かれているかです。書かれていなければ、それは新たな申入れであり、応じるかどうかは売主の判断に委ねられます。
クロージングの前に就業規則を変更してほしいと言われました。応じてよいのでしょうか
慎重な判断を要する求めです。労働条件の不利益な変更については、労働者との合意によるか、変更後の就業規則の周知と変更内容の合理性が認められる必要があるとされており、この点は労働契約法第8条から第10条までに定められています。譲渡の直前という時期に、譲渡の事実を詳しく説明しないまま同意を求めた場合、その同意の効力が後に争われる余地があります。また、変更を行った時点の使用者は売主が支配していた会社ですから、責任が売主に及ぶ構造になっていないかを確認する必要があります。買主がクロージングの後に自ら実施することを提案することが、多くの場合に無理のない対応です。ただし、結論は事案により異なります。
主要な取引先から同意書を取ってきてほしいと言われました。応じる義務はあるのでしょうか
株式譲渡契約のクロージングの前提条件に、当該同意書の取得が明記されているかどうかで結論が変わります。明記されていなければ、応じる義務は原則としてありません。明記されている場合でも、対象となる取引先の範囲、同意書の様式、取得できなかった場合の取扱いを確認します。あわせて、取引先に説明を行うこと自体が秘密保持の条項に反しないかを確認する必要があります。応じる場合には、結果を保証する義務ではなく、誠実に努力する義務にとどめる書き方を検討します。
退職金の負担を売主に求められました。どのように整理すればよいのでしょうか
まず、株式譲渡契約に、クロージングの日をまたぐ退職金及び賞与の負担に関する定めがあるかを確認します。定めがある場合はそれに従います。定めがない場合には、金銭による調整の問題として扱います。実務上分かりやすい整理は、クロージングの日を基準として、それ以前の在職期間に対応する部分を売主が、それ以後を買主が負担するという分け方です。買主に対して、対象者ごとの在職期間、算定の基礎となる賃金、退職金規程の該当条項を示した計算書の提出を求め、金額を確定させます。譲渡代金からの控除で処理する場合には、控除の金額と、それ以上の請求を行わない旨を書面に残します。
買主が決済に応じない場合、契約を解除できるのでしょうか
買主に決済の義務があるにもかかわらず履行されない場合には、相当の期間を定めて履行の催告をし、その期間内に履行がないときに契約を解除することができる旨が民法第541条に定められています。実際に進める際には、まず書面で、決済を行わない理由が前提条件のいずれの不充足によるものかを質し、次に内容証明郵便により期限を定めて決済を求めます。そのうえで解除の意思表示を行います。違約金の定めがあればその金額を請求し、定めがなければ損害の賠償を請求することになりますが、回収できる金額は事案により異なります。
期日を延ばすことを提案されました。応じてよいのでしょうか
作業の量から見て合理的であれば、応じることに問題はありません。ただし、新しい期日を確定した日付で定めること、その期日に決済を行う買主の義務を明記すること、さらに期日を動かす場合の手続を定めること、この3点を書面で確認します。「別途協議のうえ定める」といった書き方にすると、決済の時期が定まらないまま売主が拘束される状態が続きます。あわせて、延期の期間中に生じる金利や人件費の負担者を決めておきます。
M&A仲介業者から「ここは譲歩したほうがよい」と言われました。従うべきでしょうか
助言の内容が合理的である場合もありますが、譲歩の結果として生じる責任は売主が負います。したがって、助言に従うかどうかは、売主自身が契約書を確認したうえで判断します。あわせて、買主の求めであることを、買主の代表者又は担当役員を宛先に含めた電子メールで確認しておきます。伝達の過程で内容が変わっている場合や、買主の正式な申入れではない場合があるためです。M&A仲介契約に定められた報酬の発生時期と、期日が延びた場合の取扱いも確認しておくとよいでしょう。
従業員にはいつ説明すればよいのでしょうか
説明の時期は、買主と事前に合意しておく事項です。一般的には、クロージングの当日又はその直前に、売主と買主が同席して説明を行う例が多く見られます。条件の変更に関する交渉が続いている段階で説明を先行させると、内容が後で変わった場合に不信を招きます。説明を行う日時、説明を行う者、配布する文書の文面、雇用や労働条件について質問が出た場合の回答を、事前に書面で一致させておきます。取引先への説明についても、時期と範囲を同様に決めておきます。
まとめ
クロージングの直前に条件の変更を求められたときに、売主がすべきことは、急いで結論を出すことではありません。契約書を開き、その求めが前提条件と誓約事項のどこに位置づけられるのかを確かめ、契約上の義務がない事項については、その旨を書面で示すことです。そのうえで、応じる場合には、補償、適用除外、期日の確定、追加請求の禁止という4点を盛り込んだ書面を作ります。
判断の順序を決めておく
実際の場面では、時間の余裕がありません。だからこそ、順序をあらかじめ決めておきます。1つ目に、求めの内容を書面で特定させます。2つ目に、契約上の根拠の有無を確認します。3つ目に、応じた場合に売主が負う責任を洗い出します。4つ目に、拒否、条件付きの受諾、クロージングの後への振替え、費用の分担、期日の変更のうち、どれを提示するかを決めます。5つ目に、書面を作成します。この5つの手順を守れば、圧力のかかる局面でも判断の質を保つことができます。
専門家の関与の求め方
弁護士に相談する場合には、株式譲渡契約書の全文、買主からの連絡の原文、これまでのやり取りの記録、従業員の名簿と労働条件に関する資料、対象となる取引先との契約書を用意します。相談の際に伝えるべきは、決済の予定日、資金の使途と期限、従業員に説明する予定の時期、譲渡が実現しなかった場合に会社がどうなるかという4点です。弁護士法人M&A総合法律事務所では、株式譲渡契約の締結後の局面についても、契約の解釈、買主への回答書面の作成、覚書の作成、従業員及び取引先への説明の設計を含めて対応しています。結果を保証することはできませんが、判断の材料を整えることは、この段階でも可能です。
具体的な御相談をお考えの皆様へ
本ページの主題に関し、当事務所の取扱内容、対応の進め方及び費用の考え方は、次の御案内のページに整理しています。あわせて御覧ください。

