代表者の退任を理由に株式譲渡代金を減額した後、続投が決まれば差額を請求できるか

代表者が退任すると聞いて株式譲渡代金の減額に応じたのに、買収後も同じ代表者が残っている。この場合、売主は減額前の代金との差額を請求できるのでしょうか。東京地方裁判所令和7年2月20日判決は、減額時に本当に退任の意思があったか、その後の続投を予見できたかを、辞任届、交渉経緯、転職活動及び待遇変更から検討しました。
本記事が扱う場面と、扱わない場面
本記事は、代表者の退任を理由とする減額合意について、売主が錯誤取消し又は事情変更による解除を主張した一つの判決を解説します。表明保証違反の一般論、業績連動のアーンアウト、会社に対する役員退職慰労金の請求は対象としていません。契約の解消に関する全体像は、株式譲渡契約を解消する場合の要件と効果をご覧ください。
裁判例の基本情報と当事者の表記
| 裁判所・裁判日 | 東京地方裁判所民事第31部・令和7年2月20日 |
|---|---|
| 事件番号 | 令和5年(ワ)第12711号 |
| 事件名 | 株式譲渡代金請求事件 |
| 結論 | 減額合意の錯誤取消し及び事情変更による解除を認めず、売主らの差額請求をいずれも棄却 |
以下では、売主を「売主会社A」及びその代表者である「売主B」、買主を「買主会社C」、株式の対象会社を「対象会社D」、同社の代表取締役を「代表者E」と表記します。売主側の交渉担当者を「F」、仲介業者を「仲介会社G」とします。Fは売主Bの父であり、売主会社A及び対象会社Dの創業者でした。引用中の当事者名も、この独自の匿名表記に置き換えています。
本記事は上記地裁判決の解説です。上訴の有無や判決の確定を確認した旨の表示ではありません。
事案の概要―代表者の退任を受け、代金を約1億1,000万円から約8,000万円へ減額
代表者に退任の意思がないことが、取引実行の条件だった
対象会社Dは土木建築工事の請負、設計、施工等を営む会社でした。売主会社Aが950株、売主Bが10株を保有し、買主会社Cがこれら合計960株を取得する計画でした。令和2年3月30日の基本合意を経て、同年5月27日に株式譲渡契約が締結されました。
当初の代金は1株11万4,583円、合計1億999万9,680円でした。契約では、取引実行までに代表者Eと買主会社Cを面談させ、Eに退任の意思がないことを確認する義務が売主側に課されていました。この確認を含む義務の履行が、買主の支払義務を履行する条件となっていました。
売却を知らされていなかった代表者が辞任届を提出した
Fは6月4日、代表者Eに株式売却について伝えました。Eは、自分が代表取締役でありながら事前に説明されていなかったことに憤り、不信感を覚えました。翌5日に代表取締役を続けられないと伝え、8日には辞任届を提出しました。仲介会社Gの担当者が続投を求めても、辞意は変わりませんでした。
ただし、Eは当時進行中の工事で監理技術者を務めていました。直ちに交代すると変更申請等が必要となり、工事への影響が懸念されました。そのため、直ちに退任手続を進めることはせず、工事が終わる7月末までは代表取締役として業務を続け、登記上も代表者として残すことになりました。
減額して取引を実行した後、待遇の改善を受けて続投へ転じた
買主会社Cの代表者は、Eの退任を知り、退任した場合の業務への影響や代替人材の有無をFに質問しました。その際、Eを説得する考えも示していました。その後、当初の条件を満たさない以上、契約を破棄することも考えられるものの、約8,000万円であれば取引を進める意向を仲介会社Gへ伝えました。
売主らと買主会社Cは6月11日に協議し、代金を1株8万3,334円、合計8,000万640円へ減額しました。6月23日、買主は減額後の全額を支払い、株式譲渡が実行されました。同時に買主会社Cの代表者も対象会社Dの代表取締役へ就任しました。
翌24日、新しい代表者はEに、報酬の増額と代表取締役にふさわしい権限の付与を提案し、続投を促しました。Eはその場では返答しませんでしたが、7月10日までに続投を決意しました。従前月額63万円だった給与に対し、買収後は役員報酬として月額100万円が支払われることになりました。
判断の出発点となった契約条項
以下は、判決本文が記載する契約内容の引用です。契約書原本の条文全文として再構成したものではありません。当事者の呼称のみ上記の匿名表記へ置き換えています。
第10条第6項―代表者の意向確認
譲渡日までの売主らの義務として、対象会社Dの代表取締役であるEと買主会社Cを面談させ、Eに退任の意思がないことを確認させるものとする(本件契約10条6項(意向確認))。
ここで約束されたのは、単に代表者の登記が残っていることではなく、本人に退任の意思がないことを買主に確認させることでした。このため、辞任届の提出は取引実行の条件に直接関わる出来事となりました。
第12条第2項・第13条―条件が満たされない場合の協議
買主会社Cは、譲渡日において、売主らが、譲渡日まで、上記意向確認を含む義務を遵守したことなどを条件として、買主の義務(譲渡価額の支払)を履行する(本件契約12条2項(クロージング条件の充足確認))。
売主ら及び買主会社Cは、クロージング条件の未成就によって譲渡日において本件株式譲渡を直ちに実行できない場合には、本件株式譲渡の実行方法等について誠実に協議を行う。売主ら及び買主会社Cは、上記協議が整わない場合には、本件株式譲渡を中止できる。
後段は判決が説明する第13条第1項・第2項の内容です。代金は買主が一方的に減額したのではなく、条件が満たされない状況について契約上予定された協議を行い、別途の覚書と合意書によって変更されました。
覚書第4条―減額の理由
この譲渡価格変更については、Eの代表取締役退任及びそれに伴い発生する対象会社Dへの影響を勘案したものとする。
減額理由は覚書に明記されていました。それでも、後に続投した場合に価格を元へ戻すという条項が認定されたわけではありません。「退任を勘案して減額した」という記載と、「退任しなかったときは差額を払う」という約束は、同じではありません。
売主が求めたもの―減額合意の取消し又は解除による差額支払
売主らは、Eが退任せず代表者にとどまったことから、減額合意の基礎に錯誤があったと主張し、令和5年4月14日に取消しの意思表示をしました。さらに訴訟では、後から事情が変わったことと信義則を理由とする減額合意の解除も主張しました。
請求額は、売主会社Aについて2,968万6,550円、売主Bについて31万2,490円、合計2,999万9,040円です。これは減額前と減額後の差額でした。買主は減額後の代金を全額支払っていたため、裁判所はまず減額合意の効力を覆すことができるかを判断する必要がありました。
したがって、本件は、合意済みの残代金を買主が単に払わなかった事案とは異なります。減額合意がそのまま有効であれば、元の価格との差額が当然に未払代金になるわけではありません。
裁判所の判断―減額時の事実と、その後の変化を分けて検討
辞任届だけでなく、転職活動や心情の経緯から退任意思を認定した
裁判所は、減額合意の時点でEが本当に辞任する意思を持っていたと認定しました。売却を知らされていなかったことに憤ったという説明は当時の立場や心情から不自然ではなく、実際に転職活動をしていたことを裏付ける転職先の従業員とのLINEのやり取りも提出されていたためです。
続投へ転じた理由についても、買主から新しい条件を提示され、転職すると単身赴任になることや報酬が上がることを考慮したという説明を合理的と評価しました。裁判所は、当初から辞めるつもりがなかったのではなく、いったん真に辞める意思を持ち、その後に考えを変えたと捉えました。
売主側は、EがFacebook上で辞任を表明していないことも指摘しました。しかし、進行中の株式譲渡に関わる重要事項を公開の場で表明するのが相当とはいえず、この点は証言の信用性を下げる事情にはならないとされました。
登記が継続していた事情も、当初の退任意思を否定しなかった
Eは辞任届を出した後も、登記上は代表者のままでした。しかし、これは進行中の工事に影響を与えないため、7月末まで業務を続けるという関係者間の合意に基づくものでした。裁判所は、直ちに退任手続をしていないことから、辞任の意思がなかったと推認することはしませんでした。
この事実認定を前提に、減額合意の時点では退任意思が真実に存在していた以上、その基礎とした事情に錯誤があったとは認めませんでした。8月以降もEが代表者にとどまったことは、減額合意後に生じた事情であり、合意した時点の認識が真実に反していたこととは区別されました。
続投への翻意は、当事者が予見できない変化ではなかった
事情変更の原則について、裁判所は、契約後の変化が契約当時に予見できず、当事者の責めに帰すことのできない理由で生じたことなどを必要とする判断枠組みを示しました。そのうえで本件では、続投の可能性は予見できたと判断しました。
減額交渉の段階で買主側はEを説得する考えを示しており、取引実行後もEは少なくとも7月末までは会社に残る予定でした。買主側の新代表者と接する機会が増え、新しい経営体制や待遇のもとで続投を選ぶことは、十分に予見できる状況だったという理由です。
「引き留めない約束」をしたという主張も採用しなかった
売主側は、買主がEを引き留めないと言っていたのに約束を破ったと主張しました。その根拠の一つは、仲介会社Gの担当者がFへ送ったメールで、6月11日に予定された会合は引き留めるためのものではないという趣旨の記載でした。
裁判所は、このメールが担当者の伝聞であることに加え、取引実行前の初対面の会合では具体的な引き留めが困難であるという認識を述べたにすぎない可能性を検討しました。その会合の目的についての説明から、将来にわたって続投を促さないとの約束まで認めることはできないと判断しました。
取引実行後に新しい報酬や権限を示して続投を促すことは、買主側が経営者として行い得る判断であり、本件では信義則に反すると評価しませんでした。
買主に再交渉義務があるとの主張も退けた
売主側は、続投することになったのであれば、買主から減額の扱いについて協議を申し入れるべきだったとも主張しました。しかし、売主側と対象会社Dは取引実行後も業務上の関係を続けており、売主側は続投を知り、又は知り得たのに、訴訟提起まで再協議を申し入れていませんでした。
裁判所は、本件の契約関係が株式譲渡の実行をもって終了したと解したこと、事情変更の原則を適用できないことなどから、買主の再交渉義務を認めませんでした。この判断を、すべての株式譲渡契約で補償義務や秘密保持義務なども取引実行と同時に消滅するという一般論に広げることはできません。
本判決の結論と、契約を検討する際の着眼点
裁判所は減額合意の錯誤取消しも事情変更による解除も認めず、売主らの請求をいずれも棄却しました。本件は「代表者が残れば減額は常に有効」という結論ではなく、合意時の退任意思、続投の予見可能性、実際の交渉内容に基づく判断です。
実務上は、減額の理由を記載するだけで足りるのか、一定期間内に代表者が残留・復帰した場合の追加支払や再協議まで定めるのかを区別して検討します。また、当初から虚偽の説明があったという問題と、当初は真実だった事情が後から変わったという問題では、確認すべき証拠が異なります。これらは本判決を踏まえた契約検討上の着眼点であり、本判決が特定の条項例の有効性を判断したものではありません。
算定資料の内容を理由として売主の表明保証違反を主張した事案については、株価算定書の評価に異論があれば株式譲渡契約を解除できるか―東京地方裁判所平成22年3月8日判決で解説しています。本件の減額合意の効力とは、請求の根拠を分けて考える必要があります。
減額後の差額請求についてのよくあるご質問
覚書に「退任を勘案した」とあれば、続投した時点で元の価格に戻りますか。
本判決は、その記載だけから差額請求を認めませんでした。減額理由の記載と、将来その事情が変わった場合の精算条項があるかは別に確認します。
代表者の登記が変わっていなければ、辞任の説明は虚偽といえますか。
本件では、工事への影響を避けるため当面登記を残す合意がありました。登記の継続だけでなく、本人の意思、辞任届、業務継続の理由、交渉の記録を合わせて判断しています。
仲介担当者のメールがあれば、引き留めない約束を証明できますか。
メールが誰の発言を、どの範囲で伝えたものかが問題になります。本件では特定の会合の目的についての説明から、買主が将来の引き留めを一切しないと約束したとは認めませんでした。
減額合意をめぐるご相談
株式譲渡代金を減額した後に説明と異なる事情が判明した場合は、元の契約と減額合意の関係、合意当時の説明、その後の経緯を整理して検討します。M&Aの株式譲渡代金が支払われずお困りではありませんかでは、代金に関する当事務所の対応をご案内しています。
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出典
東京地方裁判所令和7年2月20日民事第31部判決、令和5年(ワ)第12711号、株式譲渡代金請求事件。判決本文に基づき事実関係と判断理由を要約し、契約内容に関する記載を引用しています。
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