買収後に中核人材が退職した場合の対応と売主への請求

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中核を担う人材の退職に関するメインのページです。本ページは、M&Aで会社を譲り受けた後に中核の人材が退職した場面で、売主の認識と合意の有無をご説明します。従業員が相次いで退職した場合は別のページをご参照ください。
従業員が相次いで退職した場面は譲り受けた会社の従業員が相次いで退職した場合に確認する事項を、売主として引抜きを指摘された場面は会社売却後に元従業員を採用し引抜きの禁止に違反すると指摘された場合を、それぞれご覧ください。
買収の実行を終え、代表者の変更登記も済ませ、新しい体制で月次の数字を追い始めた頃に、事業の中核を担っていた人物から退職の申出を受けることがあります。長年にわたって主要な取引先の窓口を単独で務めていた営業部長、製造工程の勘所を握っていた工場長、社内の唯一の有資格者として現場を回していた技術者、あるいは前の経営者の右腕として数字の全体を把握していた経理の責任者。誰が抜けるかによって衝撃の大きさは異なりますが、共通しているのは、その人物がいることを前提に事業計画を組み、その前提の上に譲渡代金を弾いたという点です。
この場面で買主が最初に抱く感情は、多くの場合、裏切られたという感覚です。売主は面談の場で「彼は残ります」と言っていた、あるいは「あの人がいるから安心してください」と繰り返していた。それなのに、引渡しから数箇月も経たないうちに辞めるという。売主は退職の予定を知っていたのではないか、知っていて黙っていたのではないか、という疑いが浮かびます。この疑いが正しいこともありますし、単に新しい体制に対する本人の不安が退職の引き金になっただけのこともあります。両者では採るべき手立てがまったく異なります。
ここで押さえておくべき出発点が一つあります。従業員には職業選択の自由があり、勤め先を辞める自由が保障されています。憲法第22条第1項は職業選択の自由を定めており、期間の定めのない雇用契約については、民法第627条第1項により、労働者からの解約の申入れがあれば申入れの日から2週間を経過することで契約が終了します。つまり、退職それ自体を買主が止めることはできません。売主との契約に在籍の継続を約束する条項が入っていたとしても、それは売主の買主に対する約束であって、従業員本人を会社に縛り付ける力を持つものではありません。本記事は、この前提を動かせないものとして受け入れたうえで、では何ができるのかを順に整理します。
退職の申出を受けた直後に行うこと
退職の申出を受けた直後の数日間の動き方が、その後の交渉の材料と事業の被害の大きさの両方を左右します。この段階でやるべきことは三つに分かれます。第一に、辞める意思の固さと理由を正確に把握すること。第二に、事業が回り続けるための引継ぎと情報の確保。第三に、売主に対する請求を検討する場合に備えた事実の記録です。
まず本人と話し、理由を正確に把握する
本人との面談は、退職を撤回させるための説得の場としてではなく、事実を聞き取る場として設計してください。聞くべきことは、退職を決めた時期、決めるに至った理由、前の経営者にその意思を伝えていたかどうか、伝えていたとすればいつどのような形で伝えたか、転職先が決まっているか、同業他社であるか、そして残ってもらうとすれば何が変われば検討の余地があるか、です。とりわけ「前の社長にはいつ話したか」という問いは重要です。ここで「売却の話が出る前から相談していた」という答えが返ってくれば、後の交渉の中心はそこになります。
退職の意思表示の形と時期を確定する
口頭で「辞めます」と言われた段階と、退職届が提出された段階とでは、法律上の意味が異なります。退職届が出ていない段階であれば、話合いによって撤回してもらう余地が残っています。他方、退職届が提出され、会社がこれを承諾してしまうと、以後は合意による解約となり、一方的な撤回は難しくなります。就業規則に退職の申出の時期に関する定めがあるか、その定めが1箇月前などとなっているかを確認し、引継ぎのために使える期間を把握してください。実務上は、本人との話合いによって引継ぎの期間を確保する方が現実的です。
事業を止めないための引継ぎと情報の確保
並行して、その人物が握っている情報の所在を洗い出します。主要な取引先の担当者名と連絡先、価格の決め方と値引きの経緯、仕入先ごとの取引条件、製造上の手順や設定値、進行中の案件の状況、社内の誰も見たことがない個人のパソコンや手帳の中身。引継ぎの範囲と期限を書面にし、後任者を同席させて取引先を一巡することを、退職までの条件として本人と合意してください。
売主が退職の予定を知っていたか
売主への請求の可否は、突き詰めれば「売主が知っていたか」「知っていて言わなかったか」に集約されます。売主が知らなかった、つまり買収の後に本人が自ら決めた退職であれば、売主に責任を問うことは容易ではありません。逆に、売主が退職の意向を把握していながら、買主の質問に対して事実と異なる答えをしていたのであれば、事情は大きく変わります。ここで必要なのは、感情ではなく、記録に基づく検証です。
買収の過程で何を聞き、何と答えられたかを読み返す
まず、買収の過程で交わした資料をすべて時系列に並べ直します。M&A仲介業者又はファイナンシャル・アドバイザーから受領した企業概要書、面談の議事録、質問書とその回答書、デュー・ディリジェンスの過程で送った追加質問の一覧と回答、電子メールのやり取り、そして最終の契約書と開示された別紙です。この中に、中核人材の在籍の継続について尋ねた記録があるかを探します。「主要な従業員に退職の予定はありますか」「キーとなる社員は買収後も残りますか」といった問いに対して、売主が「予定はありません」「残る意向を確認しています」と答えている記録があれば、それが交渉の起点になります。
知っていたことを裏づける社内の資料
売主の認識を推認させる資料は、対象会社の中に残っていることがあります。確認すべきものとして、退職の申出をした人物と前の経営者との間の電子メールや通信アプリの履歴、人事の担当者が作成した面談の記録、賃金や役職の見直しに関する稟議、慰留のために提示された条件の記録、後任者の採用に関する社内の検討資料、退職金の試算の依頼などがあります。買収の話が動き出す前の時期に、後任の採用や役割の分担の見直しが検討されていた形跡があれば、売主が退職の可能性を認識していたことをうかがわせます。
在籍の継続に関する合意があったか
次に確認するのは、契約書の中に在籍の継続に関する定めがあるかどうかです。中小企業の株式譲渡契約では、主要な人物の在籍の継続に関する条項が置かれることがあり、実務上はキーマン条項などと呼ばれます。ただし、その内容と法的な効き目は契約によって大きく異なり、名前が付いているだけで実質的な意味を持たないものも見受けられます。自社の契約がどの類型に当たるかを確かめてください。
在籍の継続に関する条項の四つの類型
実務でよく見られる形は、おおむね次のように分かれます。第一に、売主が「主要な従業員が引渡しの後も一定の期間在籍するよう最大限努力する」と約束する努力目標の型です。この型は違反を認定することが難しく、実効性は限られます。第二に、引渡しの前提条件として、対象となる人物から在籍の継続に関する同意書を取得することを求める型です。第三に、代金の一部を留保し、一定の期間の在籍を条件として支払う型です。第四に、在籍しなかった場合に代金の減額又は違約金の支払を定める型です。
本人との間に合意があったか
売主との契約とは別に、対象となる人物本人との間で、在籍の継続に関する書面が交わされていることがあります。買収の実行の前に、本人から「買収後も引き続き勤務する意向である」旨の同意書を得ている場合や、買収の実行と同時に新しい雇用契約や委任契約を結んでいる場合です。もっとも、これらの書面があっても、退職の自由そのものを奪うことはできません。書面の意味は、退職を禁じる点にではなく、在籍を条件として支給する一時金の返還や、引継ぎの義務の履行を求める根拠になり得る点にあります。
退職を思いとどまってもらうための現実的な手立て
法律上退職を止められない以上、実際に効く手立ては、本人が残りたいと思える条件を作ることに尽きます。中小企業の買収の現場で有効性が高いのは、次のようなものです。第一に、処遇の見直しです。賃金、役職、賞与の決め方を具体的な金額と時期を示して提示します。第二に、役割の明確化です。買主の親会社から人が入ってくることへの不安、これまでの裁量が失われることへの警戒が退職の理由であることは珍しくありません。決裁の範囲、報告の相手、これまでの進め方をどこまで維持するかを文章にして示すことで、不安は具体的に減ります。
第三に、在籍の継続を条件とする一時金です。たとえば、1年間の在籍と引継ぎの完了を条件として一定額を支給し、期間の途中で自己都合により退職した場合には支給しない、あるいは既払分の返還を求める、という設計です。金額の水準は、その人物が抜けた場合に見込まれる利益の減少と、後任の採用及び育成に要する費用を踏まえて決めます。第四に、退職の理由が人間関係にある場合には、報告の系統を変える、担当を分ける、といった配置の工夫が効くこともあります。いずれの手立ても、退職の申出を受けてから慌てて用意するより、買収の実行の前後に先んじて示す方が効きます。
依存の高い会社を買収する場合の事前の備え
特定の人物への依存が高い会社を買収する場合には、買収の前の段階で備えを組み込んでおくことが最も費用対効果に優れます。具体的には、次の五つを検討してください。第一に、デュー・ディリジェンスの段階で、対象となる人物への面談を条件として求めることです。売主が面談を拒む場合には、その理由自体が判断の材料になります。第二に、在籍の継続に関する本人の同意書を引渡しの前提条件とすることです。第三に、代金の一部を一定の期間の在籍と連動させる形にすることです。
第四に、その人物が抜けた場合に事業がどれだけ痛むかを、買収の前に数字で見積もっておくことです。担当している売上と粗利、取引先との関係の属人性、代替できる人材の市場での有無を、価格の検討の中に織り込みます。第五に、買収の後の最初の3箇月間に何をするかを、買収の前に決めておくことです。この段取りが白紙のまま引渡しの日を迎えると、不安を抱えた中核人材が最も不安定な時期を放置することになります。
表明保証及び誓約事項との関係
売主に対して金銭の請求を検討する場合、その根拠として最初に見るのが、株式譲渡契約の表明保証と誓約事項です。表明保証とは、契約の当事者が一定の事実が真実かつ正確であることを相手方に対して表明し、保証する条項をいいます。誓約事項とは、契約の締結から引渡しまでの間、あるいは引渡しの後に、当事者が行うこと又は行わないことを約束する条項をいいます。中核人材の退職の場面で問題になるのは、主として従業員に関する表明保証と、引渡しまでの間の事業の運営に関する誓約事項です。
どの条項が使えるかを特定する
従業員に関する表明保証としては、「対象会社の主要な従業員から退職の申出を受けていない」「対象会社と従業員との間に紛争は存在しない」「開示した従業員の名簿は正確である」といった文言が置かれることがあります。このうち、退職の申出を受けていない旨の表明があり、実際には引渡しの前に申出を受けていたのであれば、表明保証の違反を主張することができます。もっとも、この文言が置かれていない契約も多く、その場合には、開示資料の正確性に関する包括的な表明や、重要な事実の不開示に関する条項を手掛かりとせざるを得ません。
補償の請求が通るための条件
表明保証の違反があったとしても、補償が当然に得られるわけではありません。多くの契約には、請求の要件と制限が細かく定められています。確認すべきは、第一に、補償の請求ができる期間です。引渡しの日から1年、あるいは18箇月といった期間が定められていることが一般的で、この期間を過ぎると請求ができなくなります。第二に、1件当たりの下限額と、累計の下限額です。少額の損害を切り捨てる仕組みが置かれていることがあります。第三に、補償の上限額です。譲渡代金の一定割合に限定されていることが少なくありません。第四に、請求の手続です。違反を知った時から一定の日数以内に書面で通知することを要件とする条項が置かれていることがあり、これを怠ると、中身に入る前に請求が排斥される危険があります。退職の申出を受けた段階で、まずこの期限を確認してください。
買主が知っていた場合の扱い
もう一つの論点は、買主が買収の前にその事実を知っていた、又は知り得た場合に、なお補償を請求できるかという点です。契約の中に、買主の認識にかかわらず補償を請求できる旨の定めがあれば、それに従います。定めがない場合には、買主が知っていた事実について補償を求めることは難しくなる傾向があります。デュー・ディリジェンスの報告書の中に、その人物の退職の可能性を指摘する記載があったにもかかわらず、価格に反映させずに実行した場合には、この点が争われます。自社の報告書に何が書かれていたかを、請求の前に確認しておいてください。
事業への影響をどう測るか
売主への請求を組み立てるにも、社内で対応の優先順位を決めるにも、まず必要なのは、その人物が抜けたことで何がどれだけ失われるのかを数字にすることです。感覚として「大きな痛手だ」と言うだけでは、交渉の場でも社内の意思決定の場でも使えません。ここでは、売上、取引先、技術及び資格、そして組織という四つの側面から測る方法を示します。
売上と粗利の帰属を分解する
最初に行うのは、直近の2期分から3期分の売上と粗利を、その人物が担当していた部分とそれ以外とに分けることです。販売管理のシステムに担当者の欄があればそれを使い、なければ請求書と受注の記録から手作業で振り分けます。全社の粗利の何割がその人物の担当分か、その中で本人の個人的な関係に依存している部分はどれか、会社の設備や商品そのものの力で取引が続いている部分はどれか、を区別してください。
取引先の離反を早い段階で測る
退職の申出を受けたら、主要な取引先を優先順位の高い順に並べ、後任者と買主側の責任者が同行して訪問し、取引の継続について直接確認します。取引先の反応を、継続の意向が明確なもの、条件次第のもの、他社への切替えを検討しているもの、の三つに分類し、それぞれの年間の取引額を集計します。この集計は、退職の直後、3箇月後、6箇月後と繰り返し、実際の受注の推移と突き合わせてください。
技術、許認可及び資格の面での穴
その人物が保有する資格に基づいて事業を営んでいた場合には、影響は売上にとどまりません。事業の種類によっては、一定の資格を有する者を置くことが法令上求められており、その者が退職すると、要件を満たさない状態が生じます。この場合には、後任の有資格者を確保するまでの間、営業の一部を停止せざるを得ないこともあります。まず、自社の事業に必要な資格と設置の要件を確認し、猶予の期間があるかどうかを所管の部署に照会してください。
損害額の算定
売主に対する請求を考える段階では、損害額を具体的に組み立てる必要があります。中核人材の退職に関する損害の算定は、通常の債務不履行の事案よりも難しく、金額の見積り方について複数の考え方があります。ここでは、実際に支出した費用の積み上げと、企業価値の減少という二つの道筋を示します。どちらか一方に絞るのではなく、両方を並べて示し、交渉の中で説得力の高い方を軸に据える方法が現実的です。なお、契約に補償の上限額の定めがあればその枠を超える請求はできず、買主の側にも損害の拡大を防ぐ努力が求められます。
実際に生じた費用と減少した利益を積み上げる
積み上げの方法では、次のような項目を拾います。第一に、後任者の採用に要した費用です。人材紹介の手数料、求人の広告費、面接に費やした時間の人件費が含まれます。第二に、後任者を育成するために要した費用と、その間の生産性の低下による損失です。第三に、退職した人物に対して慰留のために支払った金銭がある場合には、その額です。第四に、外部への委託により業務を賄った場合には、その委託費と従前の人件費との差額です。
第五に、減少した利益です。退職の前後の粗利を比較し、退職に起因する減少分を算出します。ここでは、比較の対象とする期間の取り方、季節による変動の調整、他の要因の除外が争点になります。会計の専門家の関与を得て、計算の前提を明示した書面にまとめておくと、交渉の場でも法的な手続の場でも使えます。
企業価値の減少という考え方
もう一つの道筋は、その人物が在籍していることを前提に算定した企業価値と、在籍しない前提で算定した企業価値との差額を損害と捉える考え方です。買収の際に、将来の利益の見込みに基づいて代金を決めていた場合には、この見込みが崩れた分だけ、支払った代金が過大であったと主張することになります。買収の際の事業計画と評価の資料が残っていれば、それを基礎として、その人物の担当分の利益を除いた計算をやり直します。
売主への請求
ここまでの検討を経て、売主に対して請求を行うかどうかを決めます。判断の材料は、契約上の根拠の強さ、売主の認識を裏づける資料の有無、損害額の大きさと立証の見込み、売主の資力、そして買収の後も売主との関係を必要とするかどうかです。前の経営者が顧問として残っている場合や、取引先との関係で売主の協力がなお必要な場合には、請求に踏み切る前に、関係の維持と回収との得失を比べる必要があります。
請求の前に整えるもの
請求の前に、次の三つを整えます。第一に、事実の時系列表です。退職の申出の日、その人物が前の経営者に意思を伝えた日、買収の各段階の日付、質問と回答のやり取りの日付を1本の表に並べます。第二に、根拠となる資料の一覧と写しです。契約書の該当する条項、質問書と回答書、電子メール、社内の記録、面談の記録を整理します。第三に、損害額の計算書です。項目ごとに金額と算定の根拠を示し、資料との対応関係を明らかにします。
交渉から法的な手続へ
最初の段階は、書面による通知と、その後の話合いです。売主が事実関係を認めるかどうか、認めた場合にどの範囲で解決を図る意思があるかを確認します。中小企業のM&Aでは、代金の一部が未払であったり、売主に対する貸付金や役員退職慰労金の支払が残っていたりすることがあり、これらとの相殺による解決が現実的な着地点になることがあります。相殺の意思表示を行うには、契約上の制限がないかを確認してください。
話合いで解決に至らない場合には、民事調停、又は訴訟の提起を検討します。表明保証の違反に基づく補償の請求は、契約に基づく請求として構成します。売主が事実を知りながら、事実と異なる説明をしていたと評価できる場合には、不法行為に基づく損害賠償の請求を併せて主張することも考えられます。事案によっては、詐欺を理由とする契約の取消しの主張が問題となることもありますが、株式譲渡の全体を巻き戻すことは実際上の困難が大きく、金銭による解決を軸に据える例が多く見られます。
回収の見込みと保全
請求が認められても、売主に支払う資力がなければ実際の回収には至りません。売主が個人である場合には、受け取った代金の使途を把握することが重要です。代金が不動産の購入や借入金の返済に充てられていることもあれば、すでに費消されていることもあります。財産の散逸のおそれが高いと判断される場合には、仮差押えなどの保全の手続を検討します。仮差押命令の申立てには担保を立てることが必要であり、民事保全法第20条第1項は、金銭の支払を目的とする債権について強制執行ができなくなるおそれがあるときに仮差押命令を発することができる旨を定めています。
よくあるご質問
ここでは、買収の後に中核となる人物の退職に直面した買主の方から実際に多く寄せられる問いを取り上げ、考え方の筋道を示します。個別の事案では、契約の文言、資料の残り方、売主の資力によって結論が変わりますので、あくまで検討の出発点としてお読みください。
退職を認めないという対応を採ることはできますか
できません。従業員には職業選択の自由があり、期間の定めのない雇用契約であれば、労働者からの解約の申入れの日から2週間を経過することで契約は終了します。会社が承諾しなければ辞められない、という扱いは認められません。採り得るのは、引継ぎの期間と範囲について本人と合意すること、処遇や役割の見直しを提示して残る選択肢を作ること、そして退職を前提とした体制の立て直しを急ぐことです。退職を認めないという姿勢を取ると、引継ぎへの協力も得られなくなり、被害が広がります。
在籍の継続に関する条項があれば、退職を止められますか
止められません。その条項は売主が買主に対して負う約束であり、従業員本人を拘束するものではないからです。この条項の意味は、退職が生じた場合に、売主に対して代金の減額、違約金の支払、留保した代金の不払といった効果を主張する根拠になる点にあります。したがって、条項の有無だけでなく、違反した場合にどのような効果が生じると書かれているかを確認することが重要です。効果の定めがない努力目標の型では、実際に使える場面は限られます。
売主が退職を知っていたことは、どうすれば証明できますか
直接の証拠として最も強いのは、退職した人物と前の経営者との間のやり取りの記録です。電子メール、通信アプリの履歴、面談の記録がこれに当たります。次に強いのは、退職した本人の説明です。本人が「売却の話が出る前に社長に伝えていた」と述べ、その内容を書面にしてもらえるのであれば、有力な材料になります。加えて、後任の採用の検討、役割の見直しの稟議、退職金の試算の依頼といった社内の資料が、認識の存在を推認させる事情として働きます。これらを時系列に並べ、売主の説明との食い違いを示す形で整理してください。
退職した人物が同業他社に移り、取引先を持って行った場合はどうなりますか
まず、その人物との間に競業を制限する取決めがあるかを確認します。取決めがある場合でも、期間、地域、対象となる職種の範囲、代償措置の有無といった事情によっては効力が否定されることがあり、書面があれば当然に差止めができるわけではありません。他方、顧客の名簿や価格の情報など、秘密として管理されていた情報を持ち出して使用している場合には、営業秘密の侵害として差止めや損害賠償を求める余地があります。いずれの構成を採るにしても、何が持ち出され、どのように使われたかを具体的に示す資料が必要です。取引先からの聞き取りと、社内の記録の保全を早い段階で行ってください。
退職を思いとどまってもらうために、金銭を支払う方法は有効ですか
有効に働く場面はありますが、設計が重要です。単に一時金を支払うだけでは、受け取った後に退職されるおそれがあります。一定の期間の在籍と引継ぎの完了を条件として支給する形にし、期間の途中で自己都合により退職した場合の扱いを書面で定めておく方法が実務的です。また、金銭だけが理由で残る人は、より条件の良い誘いがあれば移ります。役割の明確化、決裁の範囲の維持、報告の系統の整理といった、働き方に関する不安の除去と組み合わせることで、効果が高まります。
買収の前に、退職の危険をどこまで確かめられますか
確かめられる範囲は、売主の協力の程度によって変わります。実務上有効なのは、対象となる人物への面談を買収の条件として求めること、在籍の継続に関する本人の同意書を引渡しの前提条件とすること、直近の数年間の退職者の数と理由を資料で確認すること、賃金の水準を同業の相場と比べること、そして担当ごとの売上と粗利の分解を求めることです。売主が面談を拒む場合には、その理由を確かめてください。理由に納得できない場合には、代金の一部を在籍と連動させる形にするなど、価格と支払の条件で備えを講じる方法があります。
具体的なご相談をお考えの皆様へ
本ページの主題に関し、当事務所の取扱内容、対応の進め方及び費用の考え方は、次のご案内のページに整理しています。あわせてご覧ください。


