株式譲渡契約の締結後にクロージングの前提条件が満たされない場合の対応

この記事の位置付け

株式譲渡契約を締結した後にクロージングの前提条件が満たされないという事態は、売主にとって取引全体の帰趨を左右する局面です。本記事では、条件の性質の見極めから解除権の行使及びその効果までを、売主の立場から整理いたします。

クロージングの延期を要する場合の対応については別の記事で扱っています。あわせて御覧ください。

株式譲渡契約に調印し、社内の限られた役員にだけ事情を伝え、あとは決済の日を待つばかりという段階に入った後で、買主から「前提条件が満たされていないため、予定どおりの実行は難しい」という連絡が入ることがあります。多くの売主にとって、この一報は寝耳に水です。調印まで半年から1年をかけ、デュー・ディリジェンスにも全面的に協力し、資料も洗いざらい出したうえでの調印でしたから、もう後は事務手続だけだと思っていたところに、突然、取引そのものが宙に浮くわけです。

この局面で売主が最も避けなければならないのは、動揺したまま買主の言い分をそのまま受け入れてしまうことです。前提条件が満たされていないという主張は、本当に契約書の文言に照らして正しいのか、その前提条件は誰のために置かれたものなのか、放棄することはできないのか、期限を延ばせば解消するものなのか、これらを一つずつ確かめないまま譲歩を重ねると、価格の引下げや広範な特別補償を飲まされたうえに、結局は破談ということにもなりかねません。

ここでは、株式譲渡契約の締結後にクロージングの前提条件が満たされないという事態に直面した売主が、何をどの順序で確認し、どのような交渉の選択肢を持ち、解除や金銭の帰趨についてどのように備えるべきかを、売主の立場から整理します。譲渡代金が1億円から10億円程度の中小企業の同族株主を念頭に置いて説明します。

Contents
  1. クロージングの前提条件とは何かを改めて確認する
    1. 前提条件は「実行しなければならない義務が生じるための条件」です
    2. 前提条件と表明保証及び誓約事項の関係
    3. 売主が負担する前提条件と買主が負担する前提条件
  2. 前提条件が満たされない事態はどのような場面で生じるか
    1. 表明保証の正確性に疑義が生じる場面
    2. 誓約事項の履行が間に合わない場面
    3. 重大な悪影響がないことを内容とする条項に触れると主張される場面
    4. 第三者の同意、許認可、役員の辞任、金融機関の承諾に関する場面
  3. 最初に確かめるべきは「その前提条件は誰のために置かれたものか」です
    1. 買主のためだけに置かれた前提条件
    2. 双方のために置かれた前提条件
    3. 売主のためだけに置かれた前提条件
  4. 前提条件の放棄を求める交渉の進め方
    1. 放棄の意思表示は必ず書面で確定させる
    2. 放棄と引換えに買主が求めてくるもの
    3. 放棄を求める際に売主が用意する資料
  5. 充足期限の延長と契約の変更
    1. 実行期限の延長を申し入れる時期と方法
    2. 変更合意書に必ず入れる事項
    3. 延長期間中に売主が守るべき事業運営上の制約
  6. 解除権の行使とその効果
    1. 誰が解除できるのか
    2. 解除の意思表示の方法と時期
    3. 解除の効果と原状回復
  7. 既に授受された手付金、保証金、違約金の帰趨
    1. まずは契約書の定めが基準となります
    2. 違約金や損害賠償額の予定が定められている場合
    3. 返還を求める場合の手順
  8. 損害賠償を請求できる場合とできない場合
    1. 前提条件の不充足それ自体は債務不履行とは限りません
    2. 誓約事項の違反が絡む場合の整理
    3. 賠償の範囲と立証の難しさ
  9. 破談となった場合に売主が直ちに着手すべき事後処理
    1. 従業員、取引先、金融機関への説明
    2. 秘密情報の返還及び廃棄と競業に関する制約
    3. 再度の譲渡に向けた立て直し
  10. 前提条件をめぐる紛争を防ぐために契約締結時に手当てしておくこと
    1. 前提条件の書き方をできる限り具体的にする
    2. 是正の機会と誠実協議の定めを置く
    3. 専門家の関与の仕方
  11. よくあるご質問
    1. 買主から「前提条件が満たされていない」と通知が来ました。まず何をすべきですか
    2. 買主に前提条件を放棄させ、予定どおり実行させることはできますか
    3. 買主が解除すると言っています。売主として争う余地はありますか
    4. 受け取った手付金や保証金は返さなければなりませんか
    5. 破談によって支出した専門家報酬を買主に請求できますか
    6. 役員の辞任届が親族から出てこない場合、どのように解決しますか
    7. 破談になった会社は、その後に売却することが難しくなりますか
  12. まとめ
    1. 通知を受けた直後に取るべき行動
    2. その後の交渉と将来への備え

クロージングの前提条件とは何かを改めて確認する

前提条件をめぐる交渉は、条項の性質を正確に理解しているかどうかで結論が大きく変わります。まずは、株式譲渡契約における前提条件がどのような働きをする条項なのかを、売主の目線で確認しておきます。

前提条件は「実行しなければならない義務が生じるための条件」です

クロージングの前提条件とは、株式の引渡しと代金の支払という契約の実行行為を行う義務が発生するために、あらかじめ満たされていなければならない事柄を列挙したものです。前提条件が満たされていないとき、その条件によって守られている当事者は、実行を拒むことができます。ここで重要なのは、前提条件が満たされないこと自体は、直ちに契約違反を意味するものではないという点です。前提条件は「義務を発生させるスイッチ」であって、「守るべき約束」そのものではないためです。この区別を押さえておかないと、買主から「前提条件違反だ」と言われた瞬間に、売主が損害賠償の責任まで負っているかのように錯覚してしまいます。

前提条件と表明保証及び誓約事項の関係

実務上、前提条件の中身の多くは、表明保証と誓約事項を引用する形で作られます。表明保証は、一定の時点における事実が真実かつ正確であることを相手方に対して述べて保証するものであり、誓約事項は、調印からクロージングまでの間に、あるいはクロージング後に、当事者が行うべきこと及び行ってはならないことを約束するものです。前提条件の条項では、典型的には「売主の表明保証がクロージング日においても重要な点において真実かつ正確であること」「売主が履行すべき誓約事項をすべて履行していること」といった形で、これらが取り込まれます。したがって、前提条件が満たされないという主張の実質は、多くの場合、表明保証が不正確であるという主張か、誓約事項が履行されていないという主張です。

売主が負担する前提条件と買主が負担する前提条件

前提条件は、売主側の事情に関するものと買主側の事情に関するものに分かれます。売主側のものとしては、表明保証の正確性、誓約事項の履行、重大な悪影響がないことを内容とする条項、取引先や賃貸人など第三者の同意の取得、許認可の承継又は再取得の目処、役員の辞任届の提出、金融機関の承諾や担保の解除などが挙げられます。買主側のものとしては、買主の表明保証の正確性、買主の社内手続の完了、資金調達の完了などが挙げられます。買主が「前提条件が満たされない」と言ってきたときは、それが売主側の条件を指しているのか、実は買主自身の側の条件、とりわけ資金調達に関する事情ではないのかを冷静に見極める必要があります。

前提条件が満たされない事態はどのような場面で生じるか

抽象的に条項を眺めていても交渉はできません。中小企業のM&Aで実際に問題となりやすい場面を、類型ごとに具体的に押さえておきます。

表明保証の正確性に疑義が生じる場面

調印後に、簿外の債務や係争の芽が判明する場合です。退職した従業員から未払残業代の請求書が届いた、取引先から製品の不具合を理由とする賠償請求の予告が来た、税務調査の連絡が入った、開示していなかった役員貸付や個人保証が見つかった、といった事例が典型です。この場合、買主は「表明保証がクロージング日において正確であるという前提条件が満たされない」と主張します。売主としては、まずその事象が表明保証のどの項目に該当するのか、その項目には「売主の知る限り」という限定や「重要な点において」という限定が付いているか、開示別紙に記載済みではないか、金額の下限が設けられていないかを、契約書の文言に即して確認します。

誓約事項の履行が間に合わない場面

調印からクロージングまでの間に売主が行うべきこととして、役員貸付金の精算、個人資産と会社資産の分離、名義株の整理、株主名簿の整備、係争案件の解決、特定の契約の解約などが定められていることがあります。中小企業の場合、これらは短期間で終わるものばかりではありません。とりわけ、親族間で名義が分散した株式の集約や、先代が個人名義で保有する不動産の会社への移転などは、相手方の都合や税務上の検討によって、想定以上に時間がかかります。履行が間に合わないと分かった時点で、直ちに買主に事情と見込みを伝え、期限の延長を協議することが、後の交渉における売主の立場を守ります。黙って期日を迎えるのが最も悪い対応です。

重大な悪影響がないことを内容とする条項に触れると主張される場面

調印後に業績が急落した、主要取引先との取引が打ち切られた、工場で事故が起きた、キーパーソンである従業員が退職した、といった事情を捉えて、買主が「重大な悪影響が生じたので実行できない」と主張することがあります。もっとも、この種の条項は、通常、一般的な経済情勢の変動や業界全体に及ぶ事情を除外しており、また「重大な」という評価を伴うため、買主の主張が当然に通るわけではありません。売主としては、当該事象が対象会社に固有のものか、除外事由に当たらないか、収益に与える影響が一時的なものか継続的なものかを、数値で示して反論する準備をします。

第三者の同意、許認可、役員の辞任、金融機関の承諾に関する場面

取引基本契約や賃貸借契約、フランチャイズ契約、システムの利用契約などに、支配権の移転を理由とする解除権や事前承諾の定めが置かれていることがあります。建設業、宅地建物取引業、介護事業、運送業、産業廃棄物処理業などの許認可は、株式譲渡では原則として会社に残りますが、役員の変更に伴う届出や、常勤役員の要件、専任の技術者の要件を満たすかどうかが問題になります。役員の辞任届については、譲渡に反対する親族役員が提出を拒むことがあります。金融機関との関係では、支配株主の変更について事前承諾を要する特約や、代表者の個人保証の解除に金融機関が難色を示すことが、しばしば実務上の障害となります。これらはいずれも、相手方のある話であり、売主の努力だけでは完結しません。

最初に確かめるべきは「その前提条件は誰のために置かれたものか」です

前提条件が満たされないという連絡を受けたとき、売主が最初に確認すべきなのは、その条項が誰の利益のために設けられたものかという点です。ここを取り違えると、放棄を求めることも、逆に自ら実行を求めることもできなくなります。

買主のためだけに置かれた前提条件

売主の表明保証の正確性、売主の誓約事項の履行、重大な悪影響の不存在、第三者の同意の取得といった条項は、通常、買主の利益のために置かれています。契約書には「買主の義務は、次の各号の条件がすべて満たされていることを条件とする」という書き出しで、買主の側の条件として整理されているのが一般的です。この類型では、買主は自らの判断でその条件を放棄して実行に踏み切ることができます。逆に言えば、売主の側から「その条件は満たされていないから実行しない」と主張することはできません。売主としては、買主に放棄を促すか、条件を充足させるか、いずれかの道を取ることになります。

双方のために置かれた前提条件

独占禁止法上の企業結合に関する届出の受理とその後の待機期間の経過、外国為替及び外国貿易法に基づく手続の完了、取引の実行を禁じる裁判所の命令が存在しないこと、といった条項は、両当事者のために置かれるのが通例です。これらは、法令上、当事者が任意に放棄できる性質のものではありません。双方のために置かれた条件は、一方の当事者だけの意思では放棄できず、放棄には両当事者の合意が必要です。契約書上、条件が「買主の義務の前提条件」の欄にあるのか、「双方の義務の前提条件」という独立の欄にあるのかを、必ず目で確かめてください。

売主のためだけに置かれた前提条件

買主の表明保証の正確性、買主の社内承認の取得、譲渡代金の支払能力に関する事項、個人保証の解除に関する手当てなどは、売主のために置かれることがあります。ここが満たされていないのであれば、実行を拒むのは売主の側です。とりわけ、代表者の個人保証の解除や、担保に供した自宅の解放が、売主の側の前提条件として明記されているかどうかは、中小企業の売主にとって死活的に重要です。明記されていない場合、代金は受け取ったが保証だけが残るという事態が生じ得ます。

前提条件の放棄を求める交渉の進め方

買主のためだけに置かれた前提条件であれば、買主がこれを放棄すれば取引はそのまま実行できます。売主としては、放棄を求める交渉を、感情論ではなく、資料と数字で組み立てます。

放棄の意思表示は必ず書面で確定させる

放棄の合意は、口頭や電子メールでのやり取りだけで済ませてはなりません。放棄する条件を特定し、放棄の対象となる事実の範囲を明示し、放棄によって表明保証違反に基づく補償請求権まで放棄するのか、それとも実行だけを認めて補償の請求権は留保するのかを、明確に書き分けた書面を取り交わします。この書き分けを曖昧にしたまま実行すると、クロージング後に買主から、放棄したはずの事項について補償を請求されることがあります。逆に、買主の側から「補償請求権も含めて一切放棄する」という文言を求められた場合には、売主にとって有利ですから、応じる価値があります。

放棄と引換えに買主が求めてくるもの

買主が条件を放棄する場合、無条件で放棄することはまれです。実務上、次のような対価が求められます。売主としては、どこまでなら受け入れられるかを、あらかじめ社内で決めておくことが大切です。

  • 譲渡代金の減額。判明した債務や請求の見込額を基礎として、代金から控除する方法です。
  • 特別補償の設定。当該事項に限り、金額の下限や上限、期間制限を外した補償を売主が約束する方法です。範囲を「当該事象に起因して現実に発生した支出」に限定し、間接損害や逸失利益を除外する交渉が要ります。
  • 代金の一部の留保。第三者に預ける方式や、買主が一定期間保管する方式があります。留保期間、解放の条件、利息の帰属を明記します。
  • クロージング後の協力義務。許認可の届出や取引先への挨拶回りなど、売主が一定期間協力する旨の約束です。無償の役務提供が長期に及ばないよう、期間と内容を限定します。

放棄を求める際に売主が用意する資料

買主に放棄を求めるには、当該事項が取引の価値を損なうものではないことを、資料で示す必要があります。未払残業代が問題であれば、対象となる従業員の範囲、時間外労働の実績、時効にかかる期間、想定される支払額の試算を提示します。取引先の同意が得られない事案であれば、当該取引先の売上構成比、代替可能性、過去の取引の推移を示します。許認可であれば、所管の窓口に事前相談を行った記録と、要件を満たす人員の確保状況を示します。「大丈夫だと思う」という言葉ではなく、根拠のある数字を出すことが、放棄を引き出す最短の道です。

充足期限の延長と契約の変更

条件を満たすための時間さえあれば解決するという事案は少なくありません。その場合、解除ではなく期限の延長を選ぶことが、双方にとって合理的です。

実行期限の延長を申し入れる時期と方法

株式譲渡契約には、通常、一定の期日までにクロージングが行われない場合には、いずれの当事者も契約を解除できる旨の定めが置かれています。この期日は、条件の充足に遅れが生じたときの実質的な期限です。延長を申し入れるのは、期日の直前ではなく、遅れの見込みが立った時点です。売主から先に、遅延の理由、解消の見込み、そのために誰が何をいつまでに行うのかを整理した工程表を添えて申し入れると、買主の社内でも決裁が通りやすくなります。期日を徒過してから協議を始めると、買主は解除権を握った状態で交渉に臨むことになり、売主の立場は著しく不利になります。

変更合意書に必ず入れる事項

延長を合意する場合、口頭やメールでの了解にとどめず、変更合意書を作成します。盛り込むべき事項は、新たなクロージング予定日、新たな解除可能日、延長の対象となる条件の特定、延長期間中の事業運営に関する制約の取扱い、表明保証をいつの時点を基準として繰り返すのか、延長に伴う費用の負担、そして延長が一度限りなのか再延長の余地があるのかという点です。とりわけ、表明保証の基準時をクロージング日に引き直すのかどうかは、延長期間中に新たな事実が生じた場合の責任の所在を左右しますので、曖昧にしてはなりません。

延長期間中に売主が守るべき事業運営上の制約

調印からクロージングまでの間、売主には通常の事業の範囲を超える行為を控える義務が課されています。延長すれば、その拘束期間も延びます。大型の設備投資、役員報酬の増額、退職金の支給、新規の借入れ、重要な契約の締結や解約、従業員の大量採用などは、買主の事前の書面による同意なく行わないのが原則です。他方で、延長が長期に及ぶと、必要な投資を控えることが会社の競争力を損なうこともあります。延長の合意にあたっては、一定の金額を超えない範囲の投資や、既定の昇給については買主の同意を要しないという例外を、具体的な金額とともに定めておくことが実際的です。

解除権の行使とその効果

条件の充足も放棄も期限の延長も難しい場合、契約の解除が視野に入ります。解除は最後の手段ですが、その効果と手順を正確に理解していないと、かえって責任を負うことになります。

誰が解除できるのか

解除権を持つのは、契約書がその権限を与えた当事者です。売主側の前提条件が満たされない場合、解除できるのは通常は買主です。もっとも、多くの契約書には、一定の期日までにクロージングが行われなかったときは、実行が行われないことについて責めを負う当事者を除き、いずれの当事者も解除できるという定めが置かれています。売主としては、自らに帰責事由がないと言える状態を作っておくことが、この解除権を確保するうえで重要です。誠実に条件の充足に努めた記録、買主への報告の記録、専門家への依頼の記録を残しておくことが、後日の主張を支えます。

解除の意思表示の方法と時期

解除は、相手方に対する意思表示によって行います(民法第540条第1項)。意思表示が到達したことを証明できるよう、内容証明郵便と配達証明を用いるのが確実です。解除の通知には、解除の根拠となる契約書の条項、解除の原因となる事実、解除の効力発生日を明記します。なお、契約書に、解除の前に相当の期間を定めて是正を求めなければならないという定めが置かれていることがあります。その手順を踏まずに行った解除は無効と評価される余地がありますので、通知の前に必ず条項を確認してください。

解除の効果と原状回復

解除がされると、当事者は互いに原状回復の義務を負います(民法第545条第1項)。クロージング前の解除であれば、株式の引渡しも代金の支払も未了ですから、原状回復の対象となるのは、既に授受された金銭、預託された保証金、引き渡された資料や情報ということになります。売主としては、開示した営業秘密、顧客名簿、原価情報、従業員の個人情報などの返還又は廃棄を、期限を定めて書面で求め、廃棄の完了について報告を受けることが必要です。秘密保持契約が株式譲渡契約とは別に締結されている場合、解除後も秘密保持義務が存続する旨の定めがあるかどうかを確認します。

既に授受された手付金、保証金、違約金の帰趨

破談となった場合、売主の関心は、既に受け取った金銭を返さなければならないのか、逆に何らかの金銭を請求できるのかという点に集まります。ここは契約書の書きぶりで結論が分かれます。

まずは契約書の定めが基準となります

中小企業のM&Aでは、独占交渉権の対価や誠実交渉の担保として、基本合意の段階で一定額が預託されることがあります。株式譲渡契約においても、代金の一部を先行して支払う例があります。これらの金銭が、解除の場合にどう扱われるのかは、契約書の定めが第一の基準です。「返還する」と定められていれば返還を要し、「返還を要しない」と定められていればそのまま帰属します。定めがない場合には、その金銭がどのような趣旨で授受されたのかを、交渉の経緯、名目、金額の水準、当事者のやり取りの記録から判断することになります。授受の際の書面に趣旨が記載されていなければ、後日の紛争の火種になります。

違約金や損害賠償額の予定が定められている場合

契約書に、一方の当事者の責めに帰すべき事由により取引が実行されなかった場合には一定額を支払う旨の定めが置かれていることがあります。当事者が損害賠償の額を予定した場合、実際の損害額の立証を要しないという扱いになります(民法第420条第1項)。売主にとっては、買主の資金調達の失敗など買主側の事情で破談となったときに、この定めが救いになります。他方で、売主の側の事情による不実行の場合には、売主が支払う側に回ります。契約交渉の段階で、どのような場合に誰が支払うのかを対称に定めることが望まれます。なお、予定額が著しく高額であるときは、その一部が公序良俗に反するとして効力を否定される余地もあります。

返還を求める場合の手順

返還を求めるときは、まず契約書の条項と授受の際の書面を特定し、返還すべき金額、根拠、支払期限、振込先を明記した書面を送付します。相手方が争う姿勢を見せた場合には、預託先の金融機関や第三者に対する通知、保全の要否を検討することになります。相手方の資力に不安があるときは、時間をかけて交渉するより、早期に法的手続を選ぶほうが結果的に回収に資することもあります。判断は事案により異なりますので、金額と相手方の状況を踏まえて方針を決めることになります。

損害賠償を請求できる場合とできない場合

破談によって売主が被る損失は小さくありません。専門家報酬、社内の労力、事業機会の逸失、従業員の動揺、金融機関との関係悪化などが挙げられます。もっとも、これらがすべて賠償の対象になるわけではありません。

前提条件の不充足それ自体は債務不履行とは限りません

前提条件は義務ではなく条件ですから、条件が満たされなかったというだけでは、債務不履行による損害賠償(民法第415条第1項)の根拠にはなりません。売主が買主に賠償を求めるには、買主に何らかの義務違反があったことを示す必要があります。例えば、買主が資金調達に向けて合理的な努力を尽くす旨の誓約に違反した場合、必要な社内手続を取らなかった場合、届出の申請を怠った場合、あるいは正当な理由なく条件の充足を妨げた場合などです。逆に、売主の誓約違反によって条件が満たされなかった場合には、買主から売主に対する請求の根拠になり得ます。

誓約事項の違反が絡む場合の整理

条件不充足の背後に誓約違反があるかどうかを見極めるため、契約書の誓約事項の条項を一つずつ点検します。「善良な管理者の注意をもって事業を運営する」「相手方に対して速やかに通知する」「条件の充足に向けて合理的な努力を行う」といった条項は、いずれも義務を定めたものです。売主としては、自らがこれらの義務を果たしていたことを示す記録を残す一方で、買主が果たしていなかった点があれば、時系列で整理します。とりわけ、買主が資金調達の見通しについて虚偽の説明をしていた、あるいは調印時点で既に社内の反対を認識していたといった事情がある場合には、責任追及の余地が生じます。

賠償の範囲と立証の難しさ

仮に義務違反が認められたとしても、賠償の対象となるのは、通常生ずべき損害と、当事者が予見すべきであった特別の事情による損害に限られます。専門家に支払った報酬や、取引のために要した実費は、比較的立証しやすい部類です。他方で、「別の買主に売れたはずの価格との差額」や「破談によって企業価値が下がった分」といった主張は、立証が容易ではありません。多くの契約書には、間接損害や逸失利益を賠償の範囲から除外する定めが置かれています。請求を検討する際は、まず契約書の賠償範囲の条項を確認し、そのうえで領収書、請求書、稼働記録といった裏付け資料を集めることになります。

破談となった場合に売主が直ちに着手すべき事後処理

取引が実行されないと決まった後の対応を誤ると、会社の事業そのものが傷みます。売主は、法的な整理と並行して、実務的な後始末を進める必要があります。

従業員、取引先、金融機関への説明

調印前後に一部の幹部へ情報を伝えていた場合、破談の事実が不確かな形で広まると、動揺や離職を招きます。誰に、いつ、どこまで伝えるのかを決め、説明の内容を統一します。取引先に対しては、原則として個別の説明を要しませんが、支配権の移転について事前に打診していた先には、状況が変わった旨を伝えます。金融機関に対しては、資金繰りの前提が変わりますので、早期に説明し、既存の借入条件の維持について確認を取ります。

秘密情報の返還及び廃棄と競業に関する制約

買主に開示した情報は、事業の中核に関わるものが少なくありません。顧客ごとの単価、原価の内訳、仕入先との取引条件、技術上の情報、従業員の待遇などが典型です。契約の終了に伴い、これらの返還又は廃棄を書面で求め、完了の報告を受けます。買主が同業者である場合には、秘密保持契約に定めた目的外使用の禁止や、勧誘の禁止の条項が、その後の防波堤になります。条項の有効期間と対象範囲を確認し、必要に応じて、あらためて確認書を取り交わすことも検討に値します。

再度の譲渡に向けた立て直し

一度破談になった会社は、次の相手方に対して「なぜ前回まとまらなかったのか」を説明する必要が生じます。ここで有効なのは、破談の原因となった事項を解消しておくことです。未払残業代が原因であれば、労務管理の是正と精算を行う、名義株が原因であれば、株式の集約を完了させる、許認可が原因であれば、要件を満たす人員を確保する、というように、一つずつ潰しておけば、次の交渉では価格の減額要因になりません。M&A仲介業者やファイナンシャル・アドバイザーとの契約についても、専任期間や手数料の取扱いを確認し、次の手続に進めるかどうかを整理します。

前提条件をめぐる紛争を防ぐために契約締結時に手当てしておくこと

ここまでは事態が生じた後の対応を述べましたが、最も効果があるのは、株式譲渡契約を作る段階での手当てです。次に売却を検討される場合、あるいは現在まさに契約書を検討中の場合には、以下の点を確認してください。

前提条件の書き方をできる限り具体的にする

「買主が満足する内容の同意を得ていること」「買主にとって受入れ可能な状態にあること」といった、買主の主観に委ねる文言は、売主にとって危険です。買主がその気になれば、いくらでも不充足と主張できてしまうためです。売主としては、「別紙に列挙した取引先から書面による同意を得ていること」「重要な点において真実かつ正確であること」というように、対象と基準を客観的に特定する方向で交渉します。金額の下限を設け、一定額に満たない事象は不充足に当たらないと定めることも有効です。

是正の機会と誠実協議の定めを置く

前提条件が満たされない場合に、直ちに解除できるのではなく、まず相当の期間を定めて是正を求め、その期間内に是正されないときに初めて解除できるという定めを置くことは、売主の利益にかないます。あわせて、条件の充足に向けて双方が合理的な努力を行う義務、進捗を相手方に通知する義務、実行期限の延長について誠実に協議する義務を定めておくと、買主が一方的に打ち切ることへの抑止になります。ただし、誠実協議の定めがあっても、合意に至る義務まで生じるわけではありませんので、過度な期待は禁物です。

専門家の関与の仕方

M&A仲介会社は当事者双方の間に立つ立場にありますので、破談の局面で売主の代理人として交渉を担う立場にはありません。前提条件の解釈、放棄の交渉、解除の可否、金銭の帰趨といった論点は、いずれも契約書の文言と法律上の評価が絡みますので、売主の側に立って助言する弁護士の関与が必要になります。弁護士法人M&A総合法律事務所では、株式譲渡契約の締結後に前提条件をめぐって取引が停滞した事案について、契約書の精査、買主との交渉、解除の要否の判断、金銭の返還請求まで、売主の立場から一貫して対応しています。契約書の作成段階から関与できれば、そもそも紛争が生じにくい条項の設計が可能になります。

よくあるご質問

ここでは、株式譲渡契約の締結後に前提条件が満たされないという事態に直面された売主の方から実際に多く寄せられる疑問を取り上げ、考え方の道筋を示します。個別の事案では契約書の文言や交渉の経緯によって結論が変わりますので、あくまで一般的な整理としてお読みください。

買主から「前提条件が満たされていない」と通知が来ました。まず何をすべきですか

最初に行うのは、契約書の前提条件の条項を開き、買主が指摘する事実がどの号に当たると主張しているのかを特定することです。次に、その号が買主のための条件なのか、双方のための条件なのかを確かめます。そのうえで、指摘された事実が本当に存在するのか、開示別紙に記載済みではないか、重要性の限定や金額の下限に照らして条件の不充足に当たるのかを検討します。この検討を終える前に、価格の減額や補償の拡大に同意する回答をしてはなりません。回答は、事実関係を確認中である旨にとどめ、期限を切って書面でやり取りすることが安全です。

買主に前提条件を放棄させ、予定どおり実行させることはできますか

買主のためだけに置かれた前提条件であれば、買主は放棄することができますが、放棄するかどうかは買主の判断に委ねられており、売主が強制することはできません。売主にできるのは、当該事項が取引の価値を損なわないことを資料で示し、必要に応じて限定的な特別補償や少額の価格調整を提示して、放棄の判断を後押しすることです。他方で、法令上の手続に関する条件のように、双方のために置かれた条件は、そもそも一方の意思では放棄できません。

買主が解除すると言っています。売主として争う余地はありますか

争う余地はあります。第一に、指摘された事実が前提条件の不充足に当たるかどうかについて、契約書の文言に照らした反論が可能です。第二に、契約書が解除の前に是正の機会を与えることを求めている場合、その手順を欠く解除の効力を争えます。第三に、実行期限の徒過を理由とする解除については、実行されなかったことについて責めを負う当事者は解除できないという定めが置かれていることが多く、遅延の原因が買主側にあるのであれば、その点を主張できます。いずれも記録の有無が勝負を分けますので、やり取りは書面と電子メールで残してください。

受け取った手付金や保証金は返さなければなりませんか

契約書に定めがあれば、その定めに従います。定めがない場合は、その金銭がどのような趣旨で授受されたかによります。独占交渉権の対価として支払われ、返還を要しない旨が明示されていれば返還は不要ですが、代金の一部前払として授受されたものであれば、解除に伴う原状回復として返還を要するのが原則です。名目が「保証金」であっても、実質が前払であれば返還を要すると判断される余地があります。授受の際の書面や、その前後のやり取りの記録を集めて検討することになります。

破談によって支出した専門家報酬を買主に請求できますか

買主に契約上の義務違反があり、それによって取引が実行されなかったと言える場合には、請求できる余地があります。もっとも、多くの株式譲渡契約には、各当事者が自らの費用を負担する旨の定めや、間接損害及び逸失利益を賠償の範囲から除く定めが置かれています。まずはこれらの条項を確認し、そのうえで、買主の誓約違反を裏付ける事実を時系列で整理し、支出を裏付ける請求書や領収書を揃えることになります。結論は契約書の書きぶりと事実関係により異なります。

役員の辞任届が親族から出てこない場合、どのように解決しますか

まず、辞任を拒む理由を確かめます。役員退職慰労金の支給、譲渡代金の分配、退職後の処遇、名誉に関わる事情など、理由によって解決策が変わります。金銭の問題であれば、支給額と支給時期を書面で確定させることで解決する場合があります。理由が感情的なものであれば、第三者を交えた説明の場を設けることが有効なこともあります。どうしても提出が得られない場合には、任期満了や株主総会の決議による解任という方法も検討の対象になりますが、解任には損害賠償の問題が伴い得ますので、慎重な検討が必要です。買主に対しては、解決の見込みと期限を早期に伝え、期限の延長を求めることになります。

破談になった会社は、その後に売却することが難しくなりますか

難しくなるとは限りません。次の相手方が気にするのは、破談の事実そのものよりも、その原因が解消されているかどうかです。原因が対象会社の労務、株式の名義、許認可、簿外の債務といった是正可能な事項であれば、これを解消したうえで臨めば、むしろ前回よりも整理された状態で交渉に入ることができます。反対に、原因を放置したまま次の相手方を探すと、同じ論点で再び停滞する可能性が高くなります。破談の直後こそ、是正に着手する好機と捉えていただきたいところです。

まとめ

ここまで述べてきた内容を、売主が実際に取るべき行動という観点から整理します。前提条件の不充足は、契約が終わったことを意味するのではなく、交渉の局面が変わったことを意味するにすぎません。

通知を受けた直後に取るべき行動

株式譲渡契約の締結後にクロージングの前提条件が満たされないという事態は、決してまれなことではありません。中小企業のM&Aでは、名義株、役員貸付、個人保証、許認可、取引先の同意といった、相手方のある課題が最後まで残りがちだからです。重要なのは、通知を受けた時点で慌てて譲歩するのではなく、契約書に立ち返り、その条件が誰のために置かれたものか、本当に不充足に当たるのか、放棄や期限の延長で解決できないかを、順序立てて確認することです。

その後の交渉と将来への備え

そのうえで、放棄を求めるのであれば資料と数字を揃え、期限の延長を求めるのであれば工程表を添えて早期に申し入れ、解除に至るのであれば手順と効果を確認して記録を残す、という対応を積み重ねることになります。金銭の帰趨と損害賠償の可否は、いずれも契約書の文言に大きく左右されますので、条項の精査が出発点です。前提条件をめぐって取引が停滞している場合、あるいはこれから株式譲渡契約の条項を検討される場合には、売主の立場に立って助言する弁護士に、早い段階でご相談いただくことをお勧めします。

具体的な御相談をお考えの皆様へ

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執筆者

弁護士法人M&A総合法律事務所 代表弁護士 土屋勝裕(東京弁護士会所属 登録番号26775)

長島・大野・常松法律事務所に在籍した後、慶應義塾大学ビジネス・スクール及びペンシルベニア大学ウォートン校に留学し、ファイナンス理論並びにM&A及び不動産を専攻しました。不動産投資信託(J-REIT)の上場案件に関与し、平成23年には最高裁判所において株式買取請求権に関する逆転判決を得ております。現在は弁護士法人M&A総合法律事務所の代表弁護士を務めております。

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