M&Aトラブルにおける損害額の算定方法と利益倍率による算定の当否

この記事の位置付け

M&Aの紛争においては、違反の有無よりも損害額の算定が実質的な争点となることが少なくありません。本記事では、損害額算定の基本となる考え方から、利益倍率による算定の当否及び立証の実務までを整理いたします。

簿外債務、不良在庫及び未払残業代が発覚した場合の個別の算定については別の記事で扱っています。あわせて御覧ください。

買収の実行を終えてしばらく経ってから、開示されていなかった債務が出てきた、決算書に載っていた売上の一部が実際には存在しなかった、主要な取引先との契約が既に打ち切られる方向で話が進んでいた、といった事実が判明することがあります。表明保証に違反する事実がある、という点までは双方に争いがなくとも、では売主がいくら払うのかという段になると、話が止まります。買主は「この会社を8億円で買ったのは、この数字を前提にしていたからだ」と述べ、売主は「出てきた債務は3000万円なのだから、3000万円の話ではないか」と述べます。この開きが、M&Aトラブルの交渉及び訴訟の中心にあります。

損害額の算定は、法律の問題であると同時に、企業価値の評価の問題でもあります。どちらか一方の理屈だけで押し切ることは難しく、契約書の文言、買収価格がどのように決められたか、違反の事実が価値にどう跳ね返るか、という三つの層を重ねて考える必要があります。とりわけ争いになりやすいのが、買収価格の算定に用いられた倍率を、損害額の算定にもそのまま用いてよいか、という論点です。買主にとっては請求額が何倍にも膨らむ論点であり、売主にとっては受入れ難い論点となります。

本稿では、譲渡代金1億円から10億円程度の非上場の中小企業のM&Aを想定し、損害額の算定について、基本となる考え方から、簿外債務型と価値毀損型の区別、倍率を用いる算定の当否、契約書の定めの有無による違い、及び立証の実務までを整理します。買主の方にも売主の方にもお読みいただけるよう、双方の主張の型を並べて示します。

Contents
  1. 損害額の算定が請求の成否を左右する場面
    1. 金額の開きがどこから生じるか
    2. 期間制限との関係で先に固めるべきこと
    3. 回収の可能性を早期に見積もる
  2. 損害額算定の基本となる考え方
    1. 差額説による考え方
    2. 原状回復的な考え方
    3. 支出した費用の回復を求める考え方
  3. 簿外債務型の損害額算定
    1. 発覚した債務の額をそのまま損害とする考え方
    2. そのまま損害とする考え方の限界
    3. 実務上確認すべき資料
  4. 価値毀損型の損害額算定
    1. 前提を正した場合の企業価値との差額
    2. 評価の方法をどう選ぶか
    3. この構成に対して売主から出る反論
  5. 利益倍率又は利払前税引前償却前利益の倍率による算定の当否
    1. 買収価格の算定に倍率が用いられていた場合の親和性
    2. 倍率をそのまま乗じることへの批判
    3. 継続性の有無による区別
    4. 倍率の水準そのものについての争い
  6. 契約書に算定方法の定めがある場合とない場合
    1. 算定方法の定めがある場合
    2. 算定方法の定めがない場合
    3. これから契約を締結する場合の条項の設計
  7. 損害額の立証の実務
    1. 鑑定及び専門家の意見書
    2. 対象会社の資料の確保
    3. 売主の側で準備すべき資料
  8. 買主の主張の型と売主の反論の型
    1. 買主の側からの組立て
    2. 売主の側からの反論の型
    3. 和解による解決の目安
  9. よくあるご質問
    1. 簿外債務が3000万円出てきた場合、請求できるのは3000万円だけでしょうか
    2. 買収価格の算定に用いた倍率を、損害額にもそのまま乗じてよいのでしょうか
    3. 契約書に損害額の算定方法が書かれていません。不利になるでしょうか
    4. デュー・ディリジェンスで気づけたはずだと言われています
    5. 専門家の意見書は必ず必要でしょうか
    6. 売主の立場ですが、買主から企業価値の目減りとして高額を請求されています
    7. 訴訟をしないと解決できないのでしょうか
  10. まとめ

損害額の算定が請求の成否を左右する場面

表明保証違反その他の契約違反に基づく請求では、違反の事実の有無と同じかそれ以上に、損害額の算定が結論を左右します。違反があると認められても、損害額を立証できなければ、認容される金額はごく限られたものにとどまります。逆に、違反の事実が比較的軽微に見えても、算定の枠組みを適切に組み立てられれば、相応の金額に至ることもあります。したがって、通知書を出す前の段階から、どの枠組みで金額を組み立てるかを決めておく必要があります。

金額の開きがどこから生じるか

買主と売主の主張額が大きく離れる原因は、多くの場合、次の三つのいずれかにあります。第一に、損害を「出てきた債務の額」と捉えるか「企業価値の目減り」と捉えるかという捉え方の相違です。第二に、買収価格の算定にどの前提が用いられていたかについての認識の相違です。第三に、違反の事実が将来にわたって影響するのか、その年限りのものなのかという評価の相違です。交渉の初期にこの三つのどこで食い違っているかを特定しておくと、無用な応酬を避けられます。

期間制限との関係で先に固めるべきこと

株式譲渡契約には、表明保証違反に基づく請求について、引渡しから一定の期間内に通知することを求める条項が置かれていることが通常です。金額の精査に時間をかけているうちにこの期間を徒過すると、算定の巧拙にかかわらず請求そのものが立ちません。金額が確定しない段階であっても、違反の事実、根拠となる表明保証の条項、及び現時点で把握している概算額を記載した通知を先に発することが実務上の定石です。通知書に記載した金額に将来拘束されないよう、追加請求を留保する旨を明記しておきます。

回収の可能性を早期に見積もる

算定の議論と並行して、売主から現実に回収できるかを見ておく必要があります。中小企業のM&Aでは、売主が個人であり、受領した譲渡代金を借入金の返済や不動産の購入に充てていることが少なくありません。補償の上限額が譲渡代金の10パーセントから20パーセントに設定されている場合、理論上の損害額がそれを超えても、請求できる額はその範囲にとどまります。エスクロー(代金の一部を第三者に預託する仕組み)が設定されているか、預託の期間がいつまでかは、算定に着手する前に確認します。

損害額算定の基本となる考え方

損害額の算定には、大きく分けて三つの考え方があります。差額説による考え方、原状回復的な考え方、及び支出した費用の回復を求める考え方です。実務では、この三つが排他的に用いられるのではなく、事案の性質に応じて組み合わせられます。どの考え方を前面に出すかによって、必要となる立証の資料が変わりますので、方針を早い段階で定めることが有益です。

差額説による考え方

差額説は、違反がなかったならば買主が置かれていたはずの財産状態と、違反があったために現に置かれている財産状態との差額を損害とする考え方です。金銭賠償の基本的な枠組みであり、表明保証違反の場面では「表明保証された内容が真実であったとした場合の株式の価値」と「真実の状態を前提とした場合の株式の価値」との差額として構成されます。この構成の利点は、違反が企業の収益力そのものに及ぶ場合に、その影響を正面から金額に反映できる点にあります。難点は、二つの企業価値をいずれも評価しなければならず、立証の負担が重い点にあります。

原状回復的な考え方

原状回復的な考え方は、違反によって生じた状態を、違反がなかった状態に戻すために必要な金額を損害とするものです。例えば、開示されていなかった未払残業代が存在した場合に、その支払に要する額を損害とする構成がこれに当たります。土壌の汚染が判明した場合の除去の費用、法令に適合していない設備を適合させるための改修の費用も、この考え方によります。金額が具体的な支出額として現れるため立証しやすい反面、支出だけでは捉えきれない収益力の低下は反映されません。

支出した費用の回復を求める考え方

取引そのものを行わなかったであろうといえる場合には、買収に要した費用の回復を求める構成が考えられます。デュー・ディリジェンスの費用、専門家への報酬、契約の締結に要した費用などです。この構成は、買収の目的が根本から失われた場合、例えば買収の主たる目的であった許認可が実際には失効していた場合などに検討されます。もっとも、株式譲渡契約が有効に存続したまま費用のみを請求することには理論上の難点があり、契約の解除又は取消しと併せて主張されるのが通常です。

簿外債務型の損害額算定

実務で最も多く現れるのが、開示されていなかった債務が後から出てくる類型です。未払の残業代、社会保険料の未納分、税務上の否認により生じる追徴、係属していた訴訟の敗訴による支払、取引先に対する未計上の債務などがこれに当たります。この類型では、発覚した債務の額をそのまま損害とする構成が出発点となりますが、そこで終わらせてよいかは事案により異なります。

発覚した債務の額をそのまま損害とする考え方

買収の時点で存在していた債務が貸借対照表に計上されていなかった場合、その債務の額だけ会社の純資産が過大に表示されていたことになります。買主は株式を取得することにより会社の債務を間接的に引き受けたのと同様の状態に置かれますから、その額を損害と構成することには合理性があります。株式譲渡契約に「本件会社が被った損害を賠償する」旨の条項が置かれている場合には、この構成がそのまま条項の文言に乗ります。立証の負担も比較的軽く、支払の事実を示す資料で足りることが多くあります。

そのまま損害とする考え方の限界

もっとも、この構成には限界があります。第一に、税効果を考慮すべき場合があります。未払残業代を支払えばその年度の損金となり、法人税の負担が減りますので、税引後の実質的な負担は債務の額よりも小さくなります。売主からは必ずこの点の主張が出ます。第二に、債務が一度限りのものか、将来にわたって継続するものかで意味が異なります。未払残業代が過去分だけの問題であれば一時的な支出ですが、賃金の計算方法自体が誤っていたのであれば、将来の人件費が恒常的に増加します。この場合、過去分の支払額のみを損害とすると、実際の負担を大きく下回ります。

実務上確認すべき資料

この類型で確保すべき資料は具体的です。未払残業代であれば、タイムカード又は入退館の記録、賃金台帳、就業規則及び賃金規程、労働基準監督署からの是正勧告書の写しです。社会保険料であれば、算定基礎届、年金事務所の調査の記録、納入告知書です。税務であれば、修正申告書、更正通知書、税務調査の際の質問応答記録書です。これらは対象会社の内部にあり、買収後は買主の管理下に入りますので、散逸する前に写しを確保し、原本の保管場所を特定しておきます。

価値毀損型の損害額算定

もう一つの類型が、買収価格の算定に用いた前提が誤っていたことにより、取得した株式の価値そのものが想定を下回っていた、という構成です。売上の一部が架空であった、主要な取引先との取引が既に終了することが決まっていた、原価の計上が正しくなく実際の利益率が開示された数値より低かった、といった事案がこれに当たります。簿外債務型と異なり、支払うべき債務が具体的に現れるわけではないため、算定の枠組みを自ら組み立てる必要があります。

前提を正した場合の企業価値との差額

基本となる構成は、開示された情報が正しかったとした場合の企業価値と、真実の情報を前提とした場合の企業価値との差額を損害とするものです。例えば、年間の営業利益が1億円であるとの前提で株式を8億円で取得したところ、実際の営業利益が7000万円であった場合に、真実の利益を前提に評価し直した企業価値との差を求めます。この構成は差額説に忠実であり、収益力の低下を正面から金額に反映できます。買主の側からは、この構成を採ることによって、簿外債務型よりも大きな金額を主張し得ます。

評価の方法をどう選ぶか

企業価値の評価には、将来の収益を予測して現在の価値に割り引く割引現在価値法、類似する会社の指標と比較する方法、純資産を基礎とする方法などがあります。中小企業のM&Aでは、純資産に一定年分の利益を加算する方法や、利益に一定の倍率を乗じる方法が実際の価格交渉で用いられていることが多くあります。損害額の算定においては、当該取引で現に用いられた評価の方法をそのまま用いることが、最も説得力を持ちます。取引の際に用いられなかった方法を訴訟になってから持ち出すと、都合のよい方法を選んだのではないかとの反論を招きます。

この構成に対して売主から出る反論

売主の側からは、いくつかの反論が定型的に提出されます。買収価格は当事者の交渉により決まったものであって、特定の数値を機械的に当てはめて決めたものではない、という反論が一つです。買主は自らデュー・ディリジェンスを行い、その結果を踏まえて価格を決めたのであるから、開示された数値のみに依拠したとはいえない、という反論も出ます。さらに、買収後の業績の低下は買主の経営に起因するものであって、買収時点の事実とは無関係である、という主張もされます。買主としては、価格の算定の過程を示す資料によってこれらに応じることになります。

利益倍率又は利払前税引前償却前利益の倍率による算定の当否

価値毀損型の算定において、最も争点となるのが倍率の扱いです。利益に一定の倍率を乗じて企業価値を求める方法は、中小企業のM&Aの価格交渉で広く用いられています。利払前税引前償却前利益(Earnings Before Interest, Taxes, Depreciation and Amortization)に一定の倍率を乗じて事業の価値を求め、そこから有利子負債を差し引いて株式の価値とする方法もよく用いられます。では、損害額の算定にもこの倍率をそのまま用いてよいのでしょうか。

買収価格の算定に倍率が用いられていた場合の親和性

買収価格が、利益に倍率を乗じる方法によって算定されていた場合、損害額の算定に同じ倍率を用いることには一定の親和性があります。当事者が「利益1円の差は企業価値の何円の差に相当する」という了解の下で価格を合意したのであれば、その了解に従って損害を算定することは、当事者の意思に沿うといえるからです。買主としては、意向表明書、基本合意書、価格の算定に用いられた資料、M&A仲介業者又はファイナンシャル・アドバイザーが作成した企業価値の算定書、交渉の過程のメールなどにより、倍率が現に用いられていたことを示します。

倍率をそのまま乗じることへの批判

他方で、倍率をそのまま乗じることには相応の批判があります。第一に、倍率は将来にわたって当該水準の利益が継続することを前提とするものですから、一時的な要因による利益の減少にまで倍率を乗じると、損害が過大に算定されます。過年度の一度限りの費用の計上漏れに5倍の倍率を乗じることは、通常は正当化しにくいところです。第二に、倍率は交渉によって決まる幅のある数値であり、事業の将来性、業界の動向、買主にとっての相乗効果など様々な要素を含んでいます。利益の差額のみを取り出して同じ倍率を乗じることが、その内実に合致するとは限りません。

継続性の有無による区別

この対立を整理する鍵は、違反の事実が利益に及ぼす影響が継続的なものか一時的なものかという区別にあります。主要な取引先との取引が終了することが決まっていた、原価の計算方法が構造的に誤っていた、といった事案では、利益の減少は将来にわたって続きますので、倍率を乗じる構成に合理性があります。他方、過年度の一度限りの費用や、既に終了した事象に起因する損失については、倍率を乗じずに実額をもって損害とする方が実態に沿います。買主としては、継続性を基礎づける資料、すなわち取引先との契約書、解約の通知、価格の推移の記録などを準備します。

倍率の水準そのものについての争い

倍率を用いることが認められる場合であっても、その水準について争いが生じます。買主は買収価格の算定に用いられた倍率を主張し、売主はより低い倍率を主張する、という構図になります。売主の側からは、当該倍率には買主が期待した相乗効果が織り込まれているのであって、それは買主固有の事情であり売主が責任を負うべきものではない、という主張がされます。裁判所が損害額の算定にあたって相当な額を定める余地もありますので、いずれの当事者においても、極端な数値のみを主張して他の可能性を示さないことは得策とはいえません。

契約書に算定方法の定めがある場合とない場合

損害額の算定について、株式譲渡契約に定めが置かれている場合と置かれていない場合とでは、議論の出発点が大きく異なります。中小企業のM&Aでは、補償条項に算定方法まで書き込まれている例は必ずしも多くありませんが、書き込まれている場合にはその文言が優先します。まず自らの契約書の文言を精読することが出発点となります。

算定方法の定めがある場合

契約書に「損害額は、表明保証の対象となった事項が真実であった場合の本件株式の価値と、真実の状態を前提とした場合の本件株式の価値との差額とする」といった定めがある場合には、価値の差額による構成が当事者の合意として定まっています。「対象会社に生じた損害の額に、譲渡人の持株比率を乗じた額とする」との定めがあれば、会社に生じた損害を基準とすることになります。「倍率を乗じないものとする」と明記されていれば、倍率による算定は封じられます。逆に「本件譲渡価額の算定に用いた倍率を乗じた額とする」との定めがあれば、倍率による算定が正面から認められます。

算定方法の定めがない場合

定めがない場合には、契約の解釈と一般の損害賠償の法理に立ち戻ることになります。この場合に手がかりとなるのは、価格がどのように算定されたかという事実です。契約書の前文、価格の調整に関する条項、意向表明書の記載、企業価値の算定書などから、当事者が何を前提に価格を合意したのかを読み取ります。買主としては、開示された財務数値に依拠して価格を決めた経緯を示す資料を集め、売主としては、価格が総合的な交渉の結果であって特定の数値の機械的な当てはめによるものではないことを示す資料を集めます。

これから契約を締結する場合の条項の設計

これから株式譲渡契約を締結する立場にある方は、この論点を契約書の段階で処理しておくことができます。算定の基準(価値の差額とするか実額とするか)、倍率を用いるか否か、税効果及び保険による回収を控除するか、間接損害や逸失利益を含めるか、一件当たりの下限額と総額の上限額、請求できる期間、といった項目を条項に落とし込みます。買主に有利な設計と売主に有利な設計は正面から対立しますので、双方が納得できる線を探ることになりますが、少なくとも「後で争う」状態を残さないことに双方の利益があります。

損害額の立証の実務

算定の枠組みを定めても、それを裏づける資料がなければ請求は通りません。損害額の立証は、違反の事実の立証よりもむしろ難しい場面が多く、準備の巧拙が結果に直結します。買収の直後から、後の請求を見据えて資料を確保しておくことが望ましいところです。

鑑定及び専門家の意見書

企業価値の差額を主張する場合、公認会計士又は企業価値の評価を専門とする者による意見書を準備することが通常です。意見書には、評価の方法、用いた前提、その前提を採用した理由、及び感応度(前提を変えた場合に結論がどの程度動くか)を記載してもらいます。単一の数値のみを示す意見書よりも、幅を示した上で合理的な範囲を述べる意見書の方が、裁判所の判断に資することがあります。訴訟において裁判所が鑑定を命じることもありますが、費用と期間を要しますので、まずは当事者の側で意見書を準備するのが実務の通例です。

対象会社の資料の確保

買主の側では、買収後に対象会社の資料を管理できる立場にありますので、必要な資料を早期に押さえます。具体的には、総勘定元帳及び補助簿、得意先別及び製品別の売上と利益の推移、原価計算の資料、受注の残高の一覧、主要な取引先との契約書及び取引の履歴、会計処理の変更の経緯を示す資料です。これらは電子データで保存されていることが多く、担当者の退職やシステムの入替えにより失われることがありますので、時点を固定した形で複製を作成し、保存の状況を記録します。

売主の側で準備すべき資料

売主の側でも、引渡しの後に資料を全く持たない状態になると、反論が難しくなります。開示した資料の一覧、データルームに掲載した資料の記録、質疑応答の記録、買主から受けた質問とそれに対する回答、価格の交渉の経緯を示すメールや議事録は、手元に控えを残しておきます。買主が当該事実を知っていた、あるいは調査により知り得たという主張は、売主にとって有力な反論となりますが、それを支えるのはこれらの記録です。買収後に「もう会社の資料は見られない」という状態になる前に、控えを整えておくことが肝要です。

買主の主張の型と売主の反論の型

ここまで述べた論点を、当事者それぞれの立場から整理します。交渉の場でも訴訟の場でも、主張は一定の型をとりますので、自らの立場の型と相手方の型の双方を把握しておくと、準備が進みます。以下は典型的な組立てであり、事案によって当てはまり方は異なります。

買主の側からの組立て

買主は、通常、次の順序で主張を組み立てます。第一に、表明保証の条項を特定し、違反する事実を示します。第二に、買収価格が開示された財務数値を基礎に算定されたことを、算定書及び交渉の記録により示します。第三に、真実の数値を前提に同じ方法で評価し直した場合の価値を示し、その差額を損害と主張します。第四に、違反の影響が将来にわたって継続することを、契約書や取引の実績により裏づけます。第五に、補償条項の上限額、下限額、期間の各要件を充たしていることを確認します。

売主の側からの反論の型

売主は、これに対して次のような反論を並べます。表明保証の文言は当該事実を対象としていない、あるいは「売主の知る限り」との限定が付されている、という文言上の反論が一つです。買主はデュー・ディリジェンスにおいて当該事実を知っていた、又は容易に知り得たのであって、それを踏まえて価格を決めている、という反論も定型です。損害の算定については、実額をもって足りるのであって倍率を乗じるべきではない、税効果を控除すべきである、買収後の業績の低下は買主の経営に起因する、といった主張が続きます。

和解による解決の目安

実際には、判決に至らず和解で終わる事案が相当数あります。和解の金額は、買主が主張する価値の差額と、売主が主張する実額との間のどこかに落ち着くことが多く、そこに回収の可能性、紛争の長期化による負担、対象会社の従業員や取引先への影響といった要素が加わります。売主が対象会社に引き続き関与している場合には、金銭の支払に代えて、一定期間の協力、競業避止の徹底、代金の一部の返還と分割払といった形の解決が採られることもあります。いずれの立場であっても、判決を得ることのみを目標に置かず、実現可能な解決の姿を早い段階で描いておくことが有益です。

よくあるご質問

損害額の算定について、ご相談の場でよくお受けする質問と、その考え方をまとめます。個別の事案では契約書の文言と価格の算定の経緯によって結論が変わりますので、あくまで一般的な整理としてお読みください。

簿外債務が3000万円出てきた場合、請求できるのは3000万円だけでしょうか

必ずしもそうとは限りません。その債務が過去分の一度限りのものであれば実額が基本となりますが、賃金の計算方法の誤りのように将来も同様の負担が続く事情であれば、将来の負担分を含めて主張する余地があります。他方、税効果によって実質的な負担が軽くなる部分については、売主から控除の主張がされます。まずは、その債務が一時的なものか継続的なものかを、原因にさかのぼって確認することをお勧めします。

買収価格の算定に用いた倍率を、損害額にもそのまま乗じてよいのでしょうか

買収価格が現にその倍率によって算定されており、かつ違反の影響が将来にわたって継続する性質のものであれば、乗じることに合理性があります。もっとも、一時的な要因による利益の減少にまで乗じることには批判が強く、そのまま認められるとは限りません。倍率を主張する場合には、価格の算定に当該倍率が用いられた事実と、影響が継続する事実の双方を示す資料を準備する必要があります。

契約書に損害額の算定方法が書かれていません。不利になるでしょうか

直ちに不利になるわけではありません。定めがない場合は契約の解釈と一般の損害賠償の法理によることになり、価格がどのように算定されたかという事実が手がかりとなります。むしろ、算定方法が書かれていないために、買主としては価値の差額による構成を主張する余地が残る、という面もあります。まずは前文、価格に関する条項、補償条項の全体を通読し、当事者が何を前提としていたかを読み取ることから始めます。

デュー・ディリジェンスで気づけたはずだと言われています

買主が知っていた事実、又は通常の調査によって知り得た事実については、請求が制限されることがあります。ただし、資料の提出を求めたのに開示されなかった事項や、売主が積極的に事実と異なる説明をした事項については、買主の落ち度を問うことは難しくなります。資料の請求の一覧、実際に開示された資料の一覧、質疑応答の記録を突き合わせ、どの事項について何を尋ね何と答えられたかを時系列で整理してください。

専門家の意見書は必ず必要でしょうか

請求の構成によります。簿外債務の実額を請求する場合には、支払の事実を示す資料で足りることが多く、意見書までは要しないこともあります。他方、企業価値の差額を主張する場合には、評価の方法と前提を示す必要がありますので、公認会計士等による意見書を準備するのが通例です。費用を要しますので、請求額の規模と回収の可能性を見比べて、どの段階で準備するかを判断します。

売主の立場ですが、買主から企業価値の目減りとして高額を請求されています

まず、表明保証の条項が当該事実を対象としているか、「売主の知る限り」等の限定が付されていないかを確認します。次に、買収価格が特定の数値の機械的な当てはめによって決まったものか、総合的な交渉の結果であるかを、交渉の経緯の記録により整理します。あわせて、補償の上限額、一件当たりの下限額、請求できる期間の各制限が働かないかを確認します。これらは順序立てて主張する必要がありますので、資料の整理と並行して進めます。

訴訟をしないと解決できないのでしょうか

訴訟に至らずに解決している事案も相当数あります。損害額の算定は評価の問題を含みますので、双方の主張に幅が生じやすく、その幅の中で折り合う余地があるためです。ただし、交渉のみを続けているうちに契約上の請求の期間を徒過すると、その後の主張が困難になります。交渉を進める場合でも、期間の起算点と満了の時期を確認し、必要に応じて期間の延長について書面で合意しておくことをお勧めします。

まとめ

M&Aトラブルにおける損害額の算定は、違反の事実の有無と同じだけ、あるいはそれ以上に結論を左右します。出発点となるのは、簿外債務型として実額を請求するのか、価値毀損型として企業価値の差額を請求するのかという枠組みの選択です。この選択によって、必要となる資料も、主張の組立ても、想定される反論も変わります。

利益倍率又は利払前税引前償却前利益の倍率を用いる算定は、買収価格が現にその方法で算定されていた場合には親和性がありますが、違反の影響が一時的なものにとどまる場合にまで倍率を乗じることには批判があります。継続性の有無という視点で事実を整理することが、この論点を扱う際の実務上の要点です。また、契約書に算定方法の定めがあるか否かによって議論の出発点が変わりますので、まず自らの契約書を精読してください。

買主の立場でも売主の立場でも、資料の確保が結論を分けます。買主は対象会社の資料を時点を固定して押さえ、売主は開示の記録と交渉の経緯の控えを残しておくことです。期間制限が働く場面ですので、金額が固まらない段階でも通知を先に発する等の手当てを検討する必要があります。判断に迷われる場合には、契約書の写しと価格の算定に関する資料をお持ちのうえ、弁護士法人M&A総合法律事務所にご相談ください。

具体的な御相談をお考えの皆様へ

本ページの主題に関し、当事務所の取扱内容、対応の進め方及び費用の考え方は、次の御案内のページに整理しています。あわせて御覧ください。

執筆者

弁護士法人M&A総合法律事務所 代表弁護士 土屋勝裕(東京弁護士会所属 登録番号26775)

長島・大野・常松法律事務所に在籍した後、慶應義塾大学ビジネス・スクール及びペンシルベニア大学ウォートン校に留学し、ファイナンス理論並びにM&A及び不動産を専攻しました。不動産投資信託(J-REIT)の上場案件に関与し、平成23年には最高裁判所において株式買取請求権に関する逆転判決を得ております。現在は弁護士法人M&A総合法律事務所の代表弁護士を務めております。

主として取り扱う分野 M&A、株式買取請求権、非上場株式の価格の決定、企業価値評価、事業承継及び企業法務

所在地 〒105-6017 東京都港区虎ノ門4丁目3番1号 森トラスト城山トラストタワー17階/電話番号 03-6435-8418/受付時間 8:00-21:00(土日祝含む)

本記事の記載は一般的な法律情報であり、個別の事案に関する法律上の助言ではありません。記載した経歴は事実の記述であり、個別の事件の結果を保証するものではありません。