買収後に未払残業代が発覚した場合の再計算と売主への請求

この記事の位置付け

買収の後に判明した未払の残業代に関するメインのページです。本ページは、M&Aで会社を譲り受けた後に対象と期間を特定し計算し直す手順をご説明します。税金の滞納が判明した場合は別のページをご参照ください。

社会保険料の滞納が判明した場面は買収後に対象会社の社会保険料の滞納が発覚した場合の対応と売主への請求を、訴訟又は労働紛争が判明した場面は買収後に訴訟や労働紛争が発覚した場合の確認手順と売主への請求を、それぞれご覧ください。

株式譲渡の実行が終わり、対象会社の管理部門を引き継いだ直後に、タイムカードの打刻時刻と給与明細に記載された残業時間とが合っていない、営業職の全員が定額の手当だけで処理されている、あるいは課長以上には残業代をまったく支払っていない、といった事実に気付くことがあります。買収の検討段階では事業と主要取引先の調査に時間を割き、労務については就業規則と労働保険の書類を眺めただけで終えた、という案件ほど、実行後にこの種の発見が生じます。

未払の割増賃金は、貸借対照表に載っていない債務でありながら、金額が数千万円に達することもあります。しかも、過去分を清算すれば終わるものではなく、同じ運用を続ける限り将来に向かって毎月積み上がっていきます。さらに、割増賃金の額が動けば社会保険料の算定基礎も動きますので、影響は賃金だけにとどまりません。買主としては、まず金額の輪郭を把握し、次にそれが売主の表明保証に違反するのかを判定し、その上で価格への影響と請求の可否を考えるという順序で進めることになります。

本稿では、中小企業を買収した買主の立場から、対象従業員と期間の特定、資料の収集、再計算の実務、遅延損害金及び付加金の扱い、労務に関する表明保証の読み方、企業価値への影響の評価、そして売主への請求という流れで、実際に何を確認し何を求めるかを具体的に述べます。譲渡代金が1億円から10億円程度の同族経営の非上場会社を念頭に置いています。

Contents
  1. 対象となる従業員と期間を特定する
    1. 賃金体系ごとに従業員を区分する
    2. 期間は消滅時効から逆算して切る
    3. 退職者と非正規の就業者を落とさない
  2. 労働時間を示す資料をどう集めるか
    1. 一次資料と補助資料を区別して集める
    2. 客観的な記録がない場合の扱い
    3. 資料の保全と社内の口止めをしない姿勢
  3. 未払の割増賃金を計算し直す
    1. 計算の基礎となる賃金に何を含めるか
    2. 固定残業代の定めが有効といえるための要件
    3. 管理監督者に当たるかどうかの判断
    4. 時間数、割増率及び既払額の控除
  4. 遅延損害金及び付加金
    1. 遅延損害金の利率は在職中と退職後で異なる
    2. 付加金は訴訟になった場合に問題となる
  5. 労務に関する表明保証の条項
    1. どの文言に当てはまるかを特定する
    2. 限定の文言を確認する
    3. 補償条項の枠組みを確認する
  6. 企業価値への影響と損害額
    1. 過去分と将来分を分けて考える
    2. 付随して生じる負担も見込む
    3. 損害額として主張できる範囲
  7. 売主への請求
    1. まず通知の期限と方法を確認する
    2. 回収の原資を確認する
    3. 交渉の順序と代替的な構成
  8. よくあるご質問
    1. 調査を始めると従業員に知られ、かえって請求が増えるのではないでしょうか
    2. 固定残業代を支払っていれば、それ以上の支払は不要ではないでしょうか
    3. 従業員が自主的に残っていた時間も労働時間になるのでしょうか
    4. タイムカードがない会社では、労働時間をどのように認定するのでしょうか
    5. 売主が実態を知らなかったと主張する場合、補償を請求できないのでしょうか
    6. 未払残業代の分だけ譲渡代金の減額を求めることはできるのでしょうか
    7. 過去分を清算すると、かえって将来の紛争を招くことになりませんか

対象となる従業員と期間を特定する

最初にすべきことは、金額の計算ではなく、誰の何年分を数えるのかという範囲の確定です。ここを曖昧にしたまま試算を始めますと、後で範囲が広がるたびに数字が動き、売主との交渉でも社内の意思決定でも足場を失います。範囲の確定は、賃金体系ごとの区分、期間の切り方、そして退職者の扱いという三つの作業に分けられます。

賃金体系ごとに従業員を区分する

賃金台帳と雇用契約書を突き合わせ、全従業員を賃金の支払方法ごとに区分します。具体的には、月給制で時間外手当を実績で支払っている層、固定残業代(みなし残業代)を含む金額で支払っている層、管理監督者として時間外手当を支払っていない層、年俸制の層、日給制及び時給制の層、そして業務委託契約の形式をとっている就業者に分けます。中小企業では、同じ「主任」でも入社時期によって契約書の内容が違う、という事態が珍しくありませんので、役職名ではなく契約書と給与明細の実際の記載で分けてください。

区分ができましたら、各区分の人数と平均賃金を並べた一覧表を作ります。この段階で、管理監督者として扱われている人数が従業員全体に占める割合、固定残業代に含まれるとされている時間数、そして時間外手当が毎月ほぼ同額で推移している層の有無を見ます。時間外手当の金額が何か月も1円単位まで同じである場合、実績ではなく定額で支払っている疑いが強いといえます。

期間は消滅時効から逆算して切る

賃金請求権の消滅時効の期間は、令和2年の民法改正に合わせて労働基準法が改正され、原則として5年とされましたが、当分の間は3年とする経過措置が置かれています。したがって、実務上の調査対象は、直近の給与支払日から遡って3年分を基本とし、経過措置が将来見直される可能性を踏まえて5年分の資料も保全しておく、という二段構えが安全です。時効は各月の賃金支払日ごとに進行しますので、調査が長引く間にも古い月から順に消滅します。

退職者と非正規の就業者を落とさない

調査の対象を在籍者だけに絞りますと、実額を大きく取り違えます。直近3年以内の退職者は、在職中よりも請求に踏み切りやすい立場にありますし、後述するとおり退職後の遅延損害金は在職中より高い利率が定められています。また、パートタイム労働者及びアルバイトについても、所定労働時間を超えた分の賃金と、法定労働時間を超えた分の割増賃金とが混同されている例が多く見られます。業務委託契約の形式をとっていても、指揮命令の実態があれば労働者と評価される余地がありますので、契約書の題名ではなく働き方の実態で判断してください。

労働時間を示す資料をどう集めるか

再計算の精度は、労働時間の資料をどこまで集められるかでほぼ決まります。買収後は対象会社の資料を買主が支配していますので、この段階で網羅的に収集し、改変されない形で保全しておくことが後の交渉の質を左右します。

一次資料と補助資料を区別して集める

労働時間の直接の証拠となる一次資料は、タイムカード、出勤簿、勤怠管理システムの生データ、及び入退館記録です。勤怠管理システムを使っている場合は、集計後の月次データではなく、打刻の生データを日次で書き出してください。集計の過程で15分単位の切捨てや上限時間での丸めが入っていることがあり、その丸めこそが未払の原因である場合が多いためです。

一次資料が欠けている期間については、補助資料で埋めます。実務上使えるものとしては、業務用パソコンのログオン及びログオフの記録、社用携帯電話の通話記録、事業所の警備システムの開錠及び施錠の記録、社用車の運行記録、業務日報、及び業務メールの送信時刻があります。これらは労働時間そのものではありませんが、在社していた時間帯の外枠を示す資料になります。

客観的な記録がない場合の扱い

使用者には労働時間を適正に把握する責務があり、賃金台帳や出勤簿には法令上の保存義務が課されています。客観的な記録を残していなかった側が、記録がないことを理由に労働時間を争うのは容易ではありません。従業員が作成した手帳やメモであっても、記載が継続的で他の資料と矛盾がなければ、労働時間の認定資料として用いられる余地があります。したがって、資料が乏しい会社ほど、買主にとっては負担が重く見積もられる方向に働くと考えて計算しておくべきです。

資料の保全と社内の口止めをしない姿勢

調査に着手する前に、勤怠データ及び給与データを日付を明示した形で複製し、書換えができない状態で保管してください。あわせて、対象会社の担当者に対して資料の廃棄をしないよう文書で指示します。買収後に資料が失われますと、売主への請求の場面で、買主が損害の発生と金額を立証できなくなります。なお、従業員に対して事実の申告を控えるよう求めるような対応は、後に紛争が生じた際に会社の姿勢として厳しく評価されますので、避けてください。

未払の割増賃金を計算し直す

再計算は、1時間当たりの単価を求め、これに割増率を乗じ、割増賃金の対象となる時間数を掛けて、既払額を控除するという手順で進みます。中小企業の案件で金額が大きく振れるのは、単価に何を含めるか、固定残業代を有効な弁済と扱えるか、管理監督者として扱えるか、という三つの論点です。

計算の基礎となる賃金に何を含めるか

割増賃金の計算の基礎となる賃金からは、家族手当、通勤手当、別居手当、子女教育手当、住宅手当、臨時に支払われた賃金、及び1か月を超える期間ごとに支払われる賃金が除外されます。これらは労働基準法第37条第5項及び同法の施行規則に定められた限定列挙であり、ここに挙がっていない手当は、名称がどうであれ基礎に算入しなければなりません。役職手当、営業手当、資格手当、精皆勤手当、皆勤手当、及び食事手当は、いずれも算入の対象です。

さらに重要なのは、列挙された手当であっても、名称ではなく実質で判断されるという点です。家族手当という名称でも、扶養家族の有無や人数と無関係に全員へ同額を支給しているのであれば、実質は基本給の一部ですので除外できません。住宅手当も、住宅に要する費用に応じて額が変わるのではなく、持家か賃貸かを問わず一律に支給しているのであれば算入の対象となります。買収した会社の賃金規程を見る際は、手当の名称を並べるのではなく、各手当の支給要件と実際の支給額の分布を確認してください。ここを取り違えますと、単価が1割から2割ずれ、総額が大きく動きます。

固定残業代の定めが有効といえるための要件

固定残業代(みなし残業代)は、あらかじめ一定額を支払っておくことで、その範囲の割増賃金の支払に充てる仕組みです。これが弁済として認められるためには、いくつかの要件を満たす必要があります。第一に、通常の労働時間の賃金に当たる部分と、割増賃金に当たる部分とが判別できることです。基本給30万円という記載だけで、そのうちいくらが割増賃金なのか判別できない定め方では、全額が基礎賃金として扱われ、しかも割増賃金は一切支払われていないという結論になり得ます。

第二に、その手当が時間外労働の対価として支払われていることです。就業規則又は雇用契約書に、何時間分の時間外労働に対する対価であるかが明示されており、かつ実際の運用がその趣旨と整合している必要があります。営業手当という名称のまま、時間外労働と関係なく職務に対して支払われてきた実態があれば、対価性は否定される方向に働きます。

第三に、固定分に相当する時間数を超えて働いた月には、超過分の差額を別途支払っていることです。定めがあっても差額を一度も支払った実績がなければ、制度全体の実効性が疑われます。第四に、固定額が法定の計算方法で算出した割増賃金の額を下回っていないことです。買主としては、就業規則、賃金規程、雇用契約書、給与明細の項目名、及び過去の差額精算の実績という五つを並べて確認してください。なお、固定残業代の定めが無効と判断された場合、その手当は基礎賃金に算入された上で、割増賃金は未払として計算されますので、影響は二重に及びます。

管理監督者に当たるかどうかの判断

労働基準法第41条第2号の管理監督者に当たる者には、労働時間、休憩及び休日に関する規定が適用されません。しかし、これに当たるかどうかは役職名では決まらず、実態で判断されます。判断の要素は、職務の内容と権限、勤務の態様、及び待遇の三つです。

職務の内容と権限については、経営者と一体的な立場にあるといえるかを見ます。具体的には、部門の予算の決定に関与しているか、部下の採用、配置及び人事評価に実質的な権限を持っているか、経営会議に構成員として出席し意見を述べているか、といった点です。店長という肩書があっても、アルバイトの採用可否を本部に伺わなければ決められないのであれば、権限は乏しいと評価されます。

勤務の態様については、出退勤の時刻について裁量があるかを見ます。他の従業員と同じようにタイムカードを打刻し、遅刻や早退で賃金を控除されているのであれば、裁量は否定される方向に働きます。待遇については、基本給、役職手当及び賞与を合わせた年収が、部下である一般従業員と比べて相応に高いかを見ます。役職手当が月2万円で、残業代を受け取る部下の方が年収が高いという状態は、管理監督者性を強く否定する事情です。

加えて注意すべきは、管理監督者に当たると認められる場合でも、深夜労働に対する割増賃金の支払は必要であり、年次有給休暇に関する規定も適用されるという点です。管理職には一切の割増賃金を払わなくてよい、という運用は、この点だけでも成り立ちません。

時間数、割増率及び既払額の控除

単価が固まりましたら、月ごとに法定時間外労働、深夜労働、及び法定休日労働の時間数を集計します。割増率は、法定時間外労働が2割5分以上、深夜労働が2割5分以上、法定休日労働が3割5分以上であり、1か月に60時間を超える法定時間外労働の部分については5割以上とされ、中小企業にもこの取扱いが適用されています。時間外労働が深夜に及ぶ場合は率が重なりますので、時間帯ごとに切り分けて集計してください。最後に、その月に支払済みの時間外手当及び固定残業代のうち有効に充当できる額を控除します。計算は必ず月単位で行い、年間の平均値で概算するようなことは避けてください。

遅延損害金及び付加金

未払額そのものに加えて、二つの上乗せを見込んでおく必要があります。試算の段階でこれを織り込まないと、交渉の途中で必要額が膨らみ、売主との合意が崩れます。

遅延損害金の利率は在職中と退職後で異なる

在職中の従業員に対する未払賃金の遅延損害金は、民法の法定利率によります。これに対し、退職した従業員に対する未払賃金については、賃金の支払の確保等に関する法律により、退職の日の翌日から年14.6パーセントという高い利率が定められています。3年分の未払額が1000万円あり、その相当部分が退職者に係るものである場合、遅延損害金だけで数百万円の規模になり得ます。退職者の人数と退職時期は、金額の見積りにおいて特に重要な要素です。

付加金は訴訟になった場合に問題となる

労働基準法第114条は、割増賃金などの支払義務に違反した使用者に対し、労働者の請求により、裁判所が未払金と同一額までの付加金の支払を命ずることができると定めています。付加金は裁判所が命じて初めて発生するものであり、任意の交渉や労働審判での和解の場面で当然に加算されるものではありません。もっとも、訴訟に至れば理論上は未払額が倍になり得るという事実は、会社側が早期の解決を選ぶ理由になります。買主としては、最悪の場合の金額として、未払元本、遅延損害金、及び付加金相当額の合計を把握しておき、社会保険料の追加負担の見込みも別途加えて考えてください。

労務に関する表明保証の条項

金額の輪郭がつかめましたら、次は株式譲渡契約に戻り、売主がどこまでを保証していたのかを読み直します。ここでの読み方を誤ると、請求できるはずの案件で請求を諦め、あるいは根拠のない請求をして交渉を悪化させることになります。

どの文言に当てはまるかを特定する

労務に関する表明保証は、通常、いくつかの条項に分かれています。典型的には、労働関係法令の遵守に関する保証、未払賃金及び未払の割増賃金が存在しないことの保証、労働時間の管理が適正に行われていることの保証、労働組合又は従業員との間に紛争が存在しないことの保証、そして社会保険及び労働保険の加入と保険料の納付に関する保証です。未払の割増賃金の事案では、複数の条項に同時に違反していることが多く、どの条項を根拠とするかによって、後述する金額の下限や期間の制限の適用が変わる場合があります。

限定の文言を確認する

実務上、争点になるのは保証の本体ではなく、それに付された限定です。第一に、売主の認識による限定です。「売主の知る限り」という文言が付されている場合、売主が認識していなかったことを理由に責任を否定される余地が生じます。もっとも、同族会社の代表者が自社の勤怠管理の実態を知らなかったという主張は、通りにくい場面が多いといえます。「知り得る限り」と定められていれば、調査を尽くせば知り得たかどうかが問われますので、買主に有利に働きます。

第二に、重要性による限定です。「重要な点において」という文言や、一定金額を超える場合に限るという定めがあれば、その金額を超えるかどうかが最初の関門になります。第三に、開示による除外です。デュー・ディリジェンスの過程で売主が提出した資料や別紙において、固定残業代の運用や管理職の扱いが記載されていた場合、開示済みの事項として保証の対象から外れると主張される可能性があります。開示資料の一覧と、そこに何が書かれていたかを、日付とともに確認してください。

補償条項の枠組みを確認する

補償請求には、通常、四つの制限が設けられています。一つ目は請求できる期間の制限で、実行日から1年ないし2年といった定めが多く見られます。二つ目は1件当たりの下限額で、これを下回る損害は請求できません。三つ目は累計の下限額で、損害の合計が一定額に達するまで請求できないという定めです。四つ目は上限額で、譲渡代金の一定割合に制限されるのが通例です。労務の問題を事前に把握していた案件では、これらの一般的な制限を外した特別補償が置かれていることもありますので、契約書の別紙まで確認してください。

企業価値への影響と損害額

未払の割増賃金は、過去の債務であると同時に、将来の費用構造の問題でもあります。この二つを分けて評価しないと、売主に請求すべき金額と、買収価格の妥当性の議論とが混ざってしまいます。

過去分と将来分を分けて考える

過去分は、実行日の時点で対象会社が負っていた簿外の債務です。株式価値の算定において純有利子負債に相当する調整項目として扱われ、原則として金額がそのまま株式価値を押し下げます。これに対し将来分は、適正な労務管理に改めた場合に毎年増加する人件費であり、正常収益力の修正として扱われます。仮に年間の人件費が800万円増え、算定に用いた倍率が4倍であれば、株式価値への影響は3200万円という計算になります。過去分より将来分の方が影響が大きい、という事態は珍しくありません。

付随して生じる負担も見込む

割増賃金を追加で支払えば、標準報酬月額の見直しを通じて社会保険料の事業主負担が増えます。また、労働基準監督署の調査を受けた場合には、是正勧告に基づいて対象範囲が全従業員に広がることがあり、その場合の支出は買主が想定した範囲を超え得ます。さらに、勤怠管理システムの導入費用、就業規則及び賃金規程の改定に要する費用、そして働き方の見直しに伴う採用費用も見込んでおいてください。これらを積み上げた金額が、企業価値への実際の影響額です。

損害額として主張できる範囲

売主に対して補償を求める際に主張できる損害の範囲は、契約の文言によります。従業員に実際に支払った未払賃金及び遅延損害金、追加で負担した社会保険料、並びに調査及び対応に要した弁護士費用は、比較的認められやすい項目です。他方で、将来の人件費の増加分や、それを企業価値に引き直した金額を損害として主張できるかは、契約の定め方と事案により異なります。実際に支出した金額を積み上げる方法と、企業価値の下落として構成する方法の両方を検討し、契約の文言に照らして主張しやすい方を選ぶことになります。

売主への請求

請求に進む場合は、手続の順序を守ることが結果を左右します。特に通知の期限は、実体的な主張がどれほど正しくても、これを徒過すれば請求そのものが認められなくなる性質のものです。

まず通知の期限と方法を確認する

株式譲渡契約には、表明保証違反を知った時から一定期間内に売主へ通知することを求める条項が置かれているのが通例です。期間は30日や60日といった短い設定であることがあり、しかも起算点が「知った時」とされている場合、社内で調査を続けている間に期間が経過してしまう危険があります。したがって、金額の確定を待たずに、違反の可能性を認識した段階で、事実の概要と暫定的な金額を記載した通知を、契約が定める方法と宛先で発することを優先してください。金額は追って補充する旨を明記しておけば足ります。

回収の原資を確認する

売主が個人株主である場合、譲渡代金を受領した後の資力は必ずしも明らかではありません。そこで、回収の原資を先に押さえます。エスクロー口座に代金の一部が留保されていないか、譲渡代金が分割払とされ未払分が残っていないか、役員退職慰労金の支払が予定されていないか、そして売主が引き続き役員又は顧問として在任し報酬を受け取っていないかを確認してください。契約に相殺の定めがあれば、未払の代金と補償請求権とを相殺する方法が、最も確実な回収手段になり得ます。

交渉の順序と代替的な構成

いきなり訴訟を提起するのではなく、まず算定根拠を示した書面を交付し、売主側の反論を受けた上で金額をすり合わせるのが通常の順序です。この際、従業員ごとの計算表、根拠とした勤怠資料、及び前提とした法令の解釈を整理して提示しますと、議論が金額の水掛け論になりません。売主が表明保証の限定を盾に責任を争う場合には、売主が実態を認識しながら開示しなかったといえる事情があれば、契約上の期間や金額の制限が及ばない場面もあり得ますし、契約とは別に不法行為に基づく請求を構成する余地もあります。もっとも、これらは立証の負担が重く、結論は事案により異なりますので、資料の裏付けの有無を冷静に見極めた上で判断してください。買収の過程で助言を受けたM&A仲介会社の関与の在り方が問題となる場面もありますので、経緯の記録も整理しておくことをお勧めします。

よくあるご質問

買収後に未払の割増賃金が判明した買主の方から、実際に多く寄せられるご質問をまとめます。

調査を始めると従業員に知られ、かえって請求が増えるのではないでしょうか

その懸念は理解できますが、調査をしないという選択は、金額を把握しないまま将来の請求と時効の進行に身を委ねることを意味します。実務上は、まず経理及び人事の限られた担当者だけで資料を収集して金額を把握し、是正の方針と原資を決めてから公表する、という順序をとることが多いといえます。なお、調査の事実を伏せるために資料を廃棄したり、従業員に申告を控えるよう求めたりすることは、後に紛争となった際に会社の立場を著しく悪くしますので、避けてください。

固定残業代を支払っていれば、それ以上の支払は不要ではないでしょうか

そうとは限りません。固定残業代が弁済として認められるためには、通常の賃金部分と割増賃金部分とが判別できること、時間外労働の対価として支払われていること、固定分を超えた月に差額を支払っていること、そして法定の計算による額を下回らないことが必要です。これらを欠く場合、その手当は基礎賃金に算入された上で、割増賃金は未払として計算されますので、かえって負担が重くなる結果になり得ます。

従業員が自主的に残っていた時間も労働時間になるのでしょうか

使用者の指揮命令の下に置かれていたと評価できるかどうかで判断されます。明示の残業命令がなくても、その時間に処理しなければ終わらない業務量が与えられていた場合や、上司が在社を認識しながら退勤を促していなかった場合には、労働時間と評価される余地があります。逆に、業務と無関係な私的な在社であることが記録上明らかであれば、労働時間から除かれる場合もあります。買主としては、業務量、上司の認識、及び当該時間の作業内容が分かる資料を確認してください。

タイムカードがない会社では、労働時間をどのように認定するのでしょうか

業務用パソコンのログオン及びログオフの記録、入退館記録、業務日報、及びメールの送信時刻といった補助資料を組み合わせて認定します。記録を残していなかったこと自体は、記録を作成し保存すべき使用者側に不利に働きますので、資料がないことを理由に金額が低く抑えられると期待するのは適切ではありません。むしろ、資料が乏しい会社ほど、見積りは保守的に、すなわち負担が重い方向に置いておくべきです。

売主が実態を知らなかったと主張する場合、補償を請求できないのでしょうか

契約の文言によります。表明保証に「売主の知る限り」という限定が付されていない場合、売主の認識は原則として問題になりません。限定が付されている場合でも、同族会社の代表者が自社の勤怠管理や賃金体系の実態を知らなかったという主張は容易には通りません。給与計算に代表者が関与していた事実、労働基準監督署からの指導の履歴、従業員からの申出の記録といった、売主の認識をうかがわせる資料を確認してください。

未払残業代の分だけ譲渡代金の減額を求めることはできるのでしょうか

実行後に代金そのものを一方的に減額することはできず、通常は補償条項に基づく金銭の請求という形をとります。代金の一部がエスクローに留保されている場合や、分割払の未払分が残っている場合には、これらと相殺する方法が現実的です。なお、請求できる金額は契約の上限額や下限額の定めに服しますので、契約書の該当条項を確認した上で見通しを立てる必要があります。

過去分を清算すると、かえって将来の紛争を招くことになりませんか

清算の進め方によります。対象者、対象期間、及び計算方法を統一した基準で行い、支払の際に清算の範囲を明確にした書面を取り交わすことで、後の蒸し返しを相当程度防ぐことができます。他方、一部の従業員にだけ支払い、他の従業員には知らせないという対応をとりますと、不公平感から紛争が拡大する場合があります。将来に向けた勤怠管理の是正と併せて、全体を一つの方針の下で進めることをお勧めします。

具体的なご相談をお考えの皆様へ

本ページの主題に関し、当事務所の取扱内容、対応の進め方及び費用の考え方は、次のご案内のページに整理しています。あわせてご覧ください。