事業計画の下方修正を開示しなかった売主の補償責任―東京地裁令和2年10月26日判決

この記事で扱う問題
買収前に事業計画が大幅に下方修正されていたのに、その計画が買主に開示されなかった事案を解説します。東京地方裁判所令和2年10月26日判決が、表明保証違反と補償請求を認め、留保された株式譲渡代金との相殺を認めた理由を整理します。
買収後の業績が事業計画を下回ったという結果だけで、売主の補償責任が決まるわけではありません。本件で問題となったのは、株式の譲渡前に、費用増加等を反映した新たな事業計画が策定されていたにもかかわらず、買主がその開示を受けていなかったことです。
裁判所は、契約上の情報開示の表明保証と報告義務を踏まえ、買主の補償請求を認めました。さらに、開示済みの計画と修正計画による企業価値の差を基礎に損害を算定し、相殺によって売主の残代金請求権が消滅したと判断しています。
判決の概要と当事者
- 裁判所・判決日:東京地方裁判所令和2年10月26日判決
- 事件番号:平成28年(ワ)第40622号
- 事件名:株式売買代金請求事件
- 結論:売主の残代金4億5,754万4,898円の支払請求を棄却しました。
以下では、売主をAさん、買主をB社、買収対象会社をC社、同時に株式を売却した別の株主をD社と表記します。実名や判例資料固有の表記を用いず、当事務所独自の匿名表記にしています。引用中の当事者表記も同様に置き換えています。
二つの事業計画と、留保金を巡る紛争
株式譲渡契約と留保金
C社はコールセンター業務等を営む非上場会社で、Aさんはその創業者・代表取締役でした。AさんとB社は平成27年4月1日、C社の株式1,533株を36億7,920万円で売買する契約を締結し、譲渡日を同月30日としました。
代金のうち5億5,188万円は留保され、譲渡日から1年6か月の補償期間を、補償請求がされずに経過した場合には、その後30日以内に支払う約束でした。これとは別に、B社はD社からもC社の373株を8億9,520万円で取得しています。この373株の売主はAさんではありません。
二つの契約はいずれもC社の発行済み2,300株全体の価値を55億2,000万円とする前提で締結され、D社との契約にはAさんとの株式譲渡の実行等を履行条件とする定めがありました。この関係は、後に補償額の対象となる株数を判断する際に重要となります。
契約締結の2日前に承認されていた修正計画
買収交渉中、B社には、C社が以前に作成した中期経営計画が提示されていました。その後、C社の取締役会は平成27年3月30日、翌事業年度の新たな事業計画を承認しました。
新計画には、拠点の拡大や組織変更に伴う費用増加等が反映されていました。役員報酬を同じ条件に補正して比較すると、開示済み計画より営業利益が1億2,607万7,000円、経常利益が1億2,001万7,000円減少する内容でした。これらは利益の減少額であり、修正後の利益額そのものではありません。
Aさんは、新計画を説明・交付していたなどと主張しました。しかし、裁判所は、譲渡日までに新計画が開示されたとは認められないと判断しました。契約後に単に業績が悪化したという事件ではなく、譲渡前に存在していた計画の不開示が争われた事件です。
買主による補償請求と相殺
B社は平成28年10月、補償条項に基づき4億5,754万4,898円を請求し、留保金との差額9,433万5,102円を支払う意向を通知しました。B社はその差額を支払いましたが、Aさんは残額の支払を求めて提訴しました。B社は訴訟中にも、補償請求権と留保金支払請求権を対当額で相殺する意思表示をしました。
判断の前提となった契約条項
以下は、判決に記載された契約条項のうち、本件の判断に関係する部分です。本文で紹介された条項と判決別紙の記載を区別して掲げています。契約書全体を掲載するものではありません。
契約別紙の情報開示に関する表明保証
「Aさんは、自ら及び対象会社を通じて、対象会社又は本件株式に関する情報(本件株式の価値に悪影響を与えるものに限る。)をすべてB社に開示しており、また、それらの情報は、すべて真実かつ正確であり、誤解を招かないために必要な記載又は説明を欠いていない。」
判決別紙1〈2〉20項。乙をAさん、甲をB社に置き換えています。
「すべての情報」という部分だけでなく、株式価値に悪影響を与える情報という限定と、誤解を招かないために必要な説明を欠いていないという部分が重要です。裁判所は、事業計画の大幅な下方修正とその基礎事情が、この条項に含まれるかを検討しました。
収支計画と譲渡日までの報告義務
「対象会社の事業の見通し及び収支計画につき,直近の財務諸表の作成基準日以降、譲渡日までの間に、本件株式の価値に悪影響を及ぼす事由は生じていない。」
判決別紙1〈2〉7項。
「Aさんは,締結日以降,譲渡日までの間,対象会社に対して,訴訟,法令違反,その他対象会社の事業,資産,負債,財務状態,経営成績,キャッシュフロー又は将来の収益計画に悪影響を及ぼすおそれのある事由又は事象が生じた可能性を認識した場合には,直ちにB社に対してその報告を行うものとする。」
判決本文第2の1(3)イに記載された契約10条4項。原告・被告を置き換えています。
裁判所はこれらの定めも踏まえ、契約締結前に生じた事情でも、まだ買主に開示されず、将来の収益計画に悪影響を及ぼし得るものであれば、売主に開示義務があると解しました。
補償の対象・金額・期間と、留保金の役割
「Aさんは,上記Aさんの表明若しくは保証の違反又は本件譲渡契約に基づくAさんの義務の違反に起因してB社が被った損害につき補償する。
この規定に基づく補償請求は,B社が,Aさんに対し,一つの補償原因事実について補償請求額が500万円を超える場合にのみ,株式譲渡価格の範囲内で補償請求をする権利を有し,譲渡日から1.5年以内に,その時点で有している情報に照らし補償の原因となる具体的な事実及び補償を求める金額を合理的に可能な範囲内で記載した書面により請求する。
この規定に基づきB社からAさんに対する補償請求がされて,Aさんが補償履行を行う場合には,両当事者の合意により,本件株式譲渡額の15%に該当する留保金額との相殺により補償履行をすることができる。
補償義務者が表明保証した事実に関する補償権利者の認識及び認識可能性は,これらの表明保証の効力又はこれらに関する保証若しくは救済手段の行使若しくは効力に影響を及ぼさないものとする。」
判決本文第2の1(3)エに記載された契約12条。当事者表記と数字の表記を変更しています。
この条項では、補償請求の金額の範囲は「株式譲渡価格の範囲内」と定められています。留保金5億5,188万円は、代金の支払留保及び補償履行との相殺に関する金額であり、これをそのまま補償責任の上限と理解することはできません。期間や通知内容と併せ、各規定の役割を分けて読む必要があります。
なぜ情報開示の表明保証に違反すると判断されたか
計画未達と、既に存在する修正計画の不開示を区別したこと
裁判所は、事業計画が将来の予測を含むことを認め、計画と実績に差が生じたことだけでは補償請求はできないとしました。一方、本件では、双方が事業計画の数値を企業価値評価の重要な要素と理解しており、契約にも将来の収益計画等に関する定めがありました。
そのため、事情の変更によって計画が大幅に下方修正された場合、その基礎事情だけでなく、計画を大幅に下方修正したという事実自体も、開示対象となり得ると解しました。事業拡大や組織変更に伴う大幅な利益減少を反映した本件計画を譲渡日までに開示しなかったことが、契約10条4項の趣旨と情報開示の表明保証に反すると判断したものです。
一部の資料が閲覧できても、拠点拡大の全容が伝わっていたとはいえなかったこと
Aさんは、費用増加の要因を既に開示していたと反論しました。裁判所は、ある拠点の受託業務については基礎となる契約書が買収調査で閲覧可能だったため、個別具体的なリスク説明が直ちに必要だったとはいえないとしています。
しかし、別の拠点の拡大については、買収調査で「未稼働スペースがあるため増床等の設備投資をせずに売上を増やせる」と説明されていたのに、その後に新たな賃借や組織分割が進められていました。以前の取締役会議事録には、その拡大の全容を認識できる記載がありませんでした。
このように、裁判所は資料の有無を一律に評価したのではなく、どの資料から、どの変更と費用増加まで分かるのかを具体的に検討しています。将来予測の当否が問題となった別の事案との違いは、株式買収後の業績悪化について売主・M&A仲介会社の責任を問えるか―東京地方裁判所平成29年3月10日判決でも確認できます。
補償額を約5億1,876万円と算定した過程
同じ条件で二つの事業計画を評価したこと
本件では、将来の資金収支を現在価値に割り引くディスカウント・キャッシュ・フロー法が、譲渡価格決定の基礎となっていました。裁判所は、修正計画が開示されていれば、それに基づいて評価額を計算し、譲渡価格も修正したと考えるのが合理的としました。
そこで、開示済み計画と修正計画を同じ条件で評価した企業価値の差を、損害算定の基本としています。さらに、実際の契約価格には交渉による加算があったため、その加算も考慮し、100%の株式価値の差額を少なくとも6億2,600万円と認定しました。すべての表明保証事件で同じ評価方法が当然に用いられるという判断ではありません。
別の株主から取得した373株も損害算定に含めたこと
裁判所は、Aさんとの契約とD社との契約が一体として締結されていたことから、B社がD社から取得した株式の価値下落分もAさんの補償責任に含まれるとしました。対象は、Aさんからの1,533株とD社からの373株を合わせた1,906株です。
したがって、6億2,600万円に取得株式の割合1,906/2,300を乗じた5億1,876万3,478円の範囲で補償請求を認めました。この金額が、留保金から既払金を控除した4億5,754万4,898円を上回るため、相殺によってAさんの残代金請求権が消滅したと判断しました。
株価の評価への異論だけで契約を解消できるかという問題は、株価算定書の評価に異論があれば株式譲渡契約を解除できるか―東京地方裁判所平成22年3月8日判決で扱っています。本件は、評価への不満だけでなく、開示義務違反による補償請求が認められた点に特徴があります。
事業計画の不開示が判明した場合の確認事項
まず、買収時に受け取った計画、社内で承認された修正計画、その基礎資料を時系列で比較します。計画作成・承認日、契約締結日、株式譲渡日、買主への交付日を分けることで、問題が単なる買収後の計画未達なのか、譲渡前の情報不開示なのかを整理できます。
次に、契約の情報開示条項、表明保証の基準日、譲渡実行までの報告義務、補償の通知期限と金額制限を確認します。留保金がある場合も、補償の上限と同じかどうかは条文次第です。通知内容については、通知の期限を過ぎる前に売主へ伝えるべき内容をご参照ください。
損害額は、計画間の利益の差をそのまま請求額にするのではなく、実際の価格決定方法、取得株数、他の株主との契約との関係も含めて検討します。本判決では、こうした事実と契約条項の積み重ねが、補償額と相殺の判断を支えています。
本件が契約上の補償を扱うのに対し、具体的な失注リスクの不開示について、取締役及び社外取締役の責任と契約の錯誤無効を判断したのが、東京地方裁判所令和4年1月28日判決です。責任を問う相手方と請求根拠の違いは、事業計画のリスク不開示と取締役の責任―東京地方裁判所令和4年1月28日判決で解説しています。
よくあるご質問
買収後に事業計画を達成できなければ、売主に補償を求められますか
計画と実績が違うという事実だけでは判断できません。本判決が問題としたのは、譲渡前に存在した大幅な修正計画を開示しなかったことと、その情報を開示すべき契約上の義務でした。
留保金の金額が補償の上限になるのですか
契約によります。本件の補償条項は、株式譲渡価格の範囲内という金額制限と、留保金による相殺の定めを区別していました。留保金の金額だけを見て上限を判断することはできません。
別の株主から購入した株式の損害まで請求できますか
本件では二つの契約の一体性などから認められましたが、一般に当然認められるわけではありません。契約の履行条件、共通の価格前提、補償条項と損害の関係を確認する必要があります。
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