譲り受けた会社の未払割増賃金への対応と売主への求償

株式を取得して1年が経過した頃、退職した従業員から代理人の弁護士を通じて未払割増賃金の請求を受けました。金額は3年分で約800万円とされております。調べてみますと、前の経営者の時代から労働時間の記録が十分に行われておらず、他の従業員についても同様の請求がされる可能性があります。売主に連絡いたしますと「自分が経営していた時代のことであり、既に会社は譲渡した」との回答でした。このようなご相談をいただくことがあります。
結論から申し上げます。株式の譲渡では法人格が変わりませんので、譲渡前に発生した未払賃金の債務は、そのまま対象会社に残ります。労働者に対して「前の経営者の時代のことである」という主張は通りません。他方、売主に対して補償を請求できるかは、株式譲渡契約の定めによる別の問題です。この2つを同時に進めることが、この類型の紛争における要点となります。本記事では、その手順を整理いたします。
第1節 なぜ債務がそのまま残るのか
株式の譲渡と法人格
株式の譲渡は、対象会社の株主が変わる取引です。対象会社の法人格に変動は生じません。したがって、対象会社が負っていた債務は、株主が誰であるかにかかわらず、そのまま対象会社の債務として存続いたします。
労働契約の当事者も対象会社ですので、従業員との関係に変動は生じません。譲渡の前後を通じて、対象会社が使用者としての義務を負い続けます。
事業譲渡又は会社分割による場合との違い
事業譲渡による場合には、労働契約が当然に承継されるものではなく、個々の労働者の同意を要するのが原則です。会社分割による場合には、会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律に定める手続によります。
これに対して、株式の譲渡による場合には、労働契約の承継という問題自体が生じません。この点が、株式譲渡において労務の問題が見落とされやすい理由の一つです。
役員の交代との関係
代表取締役が交代しても、会社の債務に影響はありません。また、譲渡前の期間について、当時の取締役が任務を怠ったといえる場合には、会社に対する損害賠償責任が問題となることがあります(会社法第423条第1項)。もっとも、この責任の追及は、売主に対する補償請求とは別の枠組みです。
第2節 労働者に対する対応
まず事実を確認いたします
請求を受けた場合、まず事実関係を確認いたします。
表1 確認すべき事項
| 区分 | 確認事項 | 確認する資料 |
|---|---|---|
| 労働時間 | 実際の労働時間、記録の方法 | タイムカード、業務記録、入退館の記録 |
| 所定労働時間 | 就業規則における定め | 就業規則、労働条件通知書 |
| 賃金の構成 | 基本給、諸手当の内容 | 賃金規程、賃金台帳 |
| 固定残業代 | 定めの有無、対象時間、金額の明示 | 就業規則、雇用契約書、給与明細 |
| 管理監督者 | 役職、権限、待遇、勤務時間の裁量 | 組織図、職務権限規程、賃金台帳 |
| 変形労働時間制等 | 制度の採用、要件の充足 | 就業規則、労使協定 |
| 時間外労働に関する協定 | 締結及び届出の有無 | 協定書、届出の控え |
| 支払の状況 | 過去の支払額 | 賃金台帳、給与明細 |
| 在職の状況 | 在職中か退職済みか | 労働者名簿 |
割増賃金に関する規定
使用者が労働時間を延長し、又は休日に労働させた場合には、通常の労働時間又は労働日の賃金の計算額の一定の率以上の率で計算した割増賃金を支払わなければならないとされています(労働基準法第37条第1項)。深夜の労働についても割増賃金の支払が必要です(同条第4項)。
法定労働時間については、労働基準法第32条に定めが置かれています。
管理監督者の範囲
監督若しくは管理の地位にある者については、労働時間、休憩及び休日に関する規定は適用されないとされています(労働基準法第41条第2号)。もっとも、これに該当するか否かは、役職名によって判断されるものではありません。
判断にあたって考慮される要素としては、事業の経営に関する重要な職務及び権限を有しているか、勤務時間について裁量を有しているか、地位にふさわしい待遇が与えられているかといった点が挙げられます。これらは判例法理により示されてきた考え方によります。
対象会社において「課長職以上は管理職であるから残業代は支払わない」という運用がされていた場合、この要件を満たしていない可能性があります。
固定残業代
一定額を割増賃金として支払う旨の定めがある場合、その支払により割増賃金の支払があったといえるかが問題となります。判断にあたっては、通常の労働時間の賃金に当たる部分と割増賃金に当たる部分とを判別することができるか、当該定めが割増賃金の対価としての性質を有するかといった点が考慮されます。これらは判例法理により示されてきた考え方によります。
定めが不明確である場合、固定残業代として支払われていた金額が割増賃金の算定の基礎に含まれることとなり、負担が大きく増加することがあります。
消滅時効
賃金請求権の消滅時効については、労働基準法第115条に定めが置かれています。同法附則第143条第3項により、当分の間、賃金の請求権は3年間行使しない場合において時効によって消滅するものとされています。
したがって、現時点においては3年分が請求の対象となります。5年分を前提とする請求を受けた場合には、この点を確認いたします。
付加金
裁判所は、労働基準法第37条の規定に違反した使用者に対して、労働者の請求により、未払金のほかこれと同一額の付加金の支払を命ずることができるとされています(労働基準法第114条)。付加金は裁判所が命ずるものであり、当然に発生するものではありません。また、同条には請求の期間に関する定めが置かれています。
遅延損害金
在職中の労働者に対する未払賃金については、法定利率(民法第404条)による遅延損害金が問題となります。退職した労働者の賃金については、賃金の支払の確保等に関する法律第6条に、退職の日の翌日からの遅延利息に関する定めが置かれています。利率は政令で定められており、法定利率よりも高い率とされています。
手続の類型
表2 労働者からの請求に用いられる手続
| 手続 | 特徴 |
|---|---|
| 交渉 | 代理人を通じた協議 |
| 労働審判 | 原則として3回以内の期日で審理されます(労働審判法第15条第2項) |
| 訴訟 | 判決により権利関係を確定いたします |
| 労働基準監督署への申告 | 労働基準法第104条に基づく申告 |
| 集団的な請求 | 複数の労働者が共同して請求する場合 |
労働審判の手続については、労働審判法に定めが置かれています(同法第1条、第5条等)。期日の回数が限られていますので、初回の期日までに主張と資料を整える必要があります。
他の従業員への波及
一人の従業員からの請求を契機として、他の従業員からも同様の請求がされることがあります。対象会社の労働時間の管理の方法に問題がある場合、同種の請求が生じ得る従業員の範囲と、その金額の見込みを把握しておく必要があります。
第3節 売主に対する請求
補償条項に基づく請求
株式譲渡契約における表明保証として、「対象会社は労働関係法令を遵守しており、従業員に対する未払の賃金は存在しない」といった項目が置かれているのが通例です。未払割増賃金が存在する場合、この表明保証に違反することになります。
検討すべきは、次の点です。
表3 補償請求において検討する事項
| 検討事項 | 内容 |
|---|---|
| 表明保証の項目 | 労務に関する項目が置かれているか |
| 開示別紙 | 労働時間の管理の状況が開示されていないか |
| 限定 | 「重要な点において」「売主の知る限り」の限定の有無 |
| 請求期間 | 労務について特則が設けられているか |
| 通知 | 期間内に書面による通知を行ったか |
| 最低請求額 | 一定額に満たない請求ができない定めの有無 |
| 上限額 | 補償の上限額 |
| 損害の範囲 | 弁護士費用、付加金、遅延損害金が含まれるか |
| 対象会社の損害 | 対象会社に生じた損害を買主の損害とみなす定めの有無 |
| 価格への反映 | デューデリジェンスにおいて価格に反映されていないか |
通知の期限
補償の請求には、契約に定められた期間内の通知が要件とされているのが通例です。労働者から請求を受けた時点で、まず契約の請求期間を確認し、期間内に売主へ通知を行う必要があります。
金額が確定していなくても、通知は行います。この点はMT15において詳述いたします。
「売主の知る限り」の限定が付されている場合
労務に関する表明保証に「売主の知る限り」という限定が付されている場合、売主が未払の存在を認識していたことを示す必要があります。
対象会社の労働時間の管理の状況、就業規則の内容、過去に同種の請求があったか、労働基準監督署の調査を受けたことがあるかといった事実が、認識の有無を判断する上での手がかりとなります。
デューデリジェンスにおける取扱いとの関係
デューデリジェンスにおいて労務の問題が指摘され、これを理由として価格が減額されていた場合、同一の事項について重ねて補償を請求することができるかが問題となります。
契約において、価格の減額において考慮された事項を補償の対象から除外する定めが置かれている場合には、その定めに従います。開示別紙に記載されている場合も同様です。
他方、デューデリジェンスにおいて指摘されず、価格にも反映されていない事項については、補償の請求の対象となり得ます。
損害の範囲
補償の対象となる損害の範囲は、契約の定めによります。労働者に支払った未払賃金の額のほか、次の項目が含まれるかを確認いたします。
- 遅延損害金及び遅延利息
- 付加金
- 対象会社が負担した弁護士費用
- 社会保険料の追加負担
- 是正措置に要した費用
契約において「通常生ずべき損害に限る」とされている場合、これらのいずれが含まれるかについて解釈の余地が生じます。
補償請求権の消滅時効
契約上の請求期間内に通知を行った場合であっても、補償請求権について消滅時効が進行いたします(民法第166条第1項)。労働者との紛争が長期に及ぶ場合には、売主との関係における時効の管理も併せて行う必要があります。
第4節 2つの対応を並行して進める
表4 並行して進める作業
| 順序 | 労働者に対する対応 | 売主に対する対応 |
|---|---|---|
| 1 | 請求の内容の確認 | 株式譲渡契約の請求期間の確認 |
| 2 | 事実関係の調査(労働時間、賃金規程) | 期間内の通知 |
| 3 | 金額の試算 | 開示別紙及び限定の確認 |
| 4 | 他の従業員への波及の見込みの把握 | 損害の範囲の整理 |
| 5 | 交渉又は手続への対応 | 売主への説明及び協議 |
| 6 | 解決 | 補償の請求 |
| 7 | 労務管理の是正 | 時効の管理 |
労働者との解決の内容が売主への請求に影響します
労働者との間で和解する場合、その内容が売主に対する補償請求に影響することがあります。契約において、第三者からの請求に関する対応について売主が関与できる手続が定められている場合には、これに従う必要があります。
売主への通知、対応方針の協議、和解に際しての売主の同意といった手続を経ずに和解した場合、補償の請求が制限される定めが置かれていることがあります。労働者との交渉を進める前に、契約の定めを確認する必要があります。
和解の金額の相当性
売主から「必要以上に高い金額で和解した」という主張がされることがあります。これに備えて、和解に至る経緯、金額の算定の根拠、和解によって回避した危険を記録しておく必要があります。
労務管理の是正
判明した問題について、将来に向けた是正を行う必要があります。労働時間の記録の方法、固定残業代の定めの明確化、管理監督者としての取扱いの見直し、就業規則の整備が対象となります。
是正を行わない限り、同種の請求が繰り返されることになります。是正に要した費用が補償の対象となるかは、契約の定めによります。
金額の試算
対応の方針を定めるためには、負担の総額を把握する必要があります。試算にあたっては、次の要素を組み合わせます。
表5 金額の試算に用いる要素
| 要素 | 内容 |
|---|---|
| 対象となる従業員の範囲 | 全従業員か、特定の職種又は役職に限られるか |
| 遡る期間 | 3年間を上限として、在職期間との関係で定めます |
| 労働時間の認定 | 記録がある場合はこれにより、ない場合は他の資料により推計いたします |
| 算定の基礎となる賃金 | 除外できる手当の範囲を確認いたします |
| 割増率 | 時間外、休日、深夜のそれぞれの区分 |
| 既払額 | 固定残業代として支払われた額の扱い |
| 遅延損害金及び遅延利息 | 在職者と退職者とで異なります |
| 付加金 | 裁判所が命ずる場合の見込み |
| 社会保険料 | 追加の負担が生ずるか |
試算の結果は、労働者との交渉の方針、売主に対する請求の金額、将来に向けた是正の優先順位を判断する基礎となります。
資力の確保
売主に対する補償請求が認められても、売主に資力がなければ現実の回収はできません。売主が個人であり、譲渡代金を既に費消している場合には、この問題が顕在化いたします。売主の資産の状況を確認し、必要に応じて保全の手続を検討いたします。
なお、労働者に対する対応と売主に対する請求とでは、主張すべき内容が逆の方向を向くことがあります。労働者に対しては未払額を争う一方、売主に対しては損害の額を主張することになるためです。双方の手続における主張の整合性を確保することが必要となります。
第5節 弁護士に相談する意味
この類型の紛争において弁護士が行う業務は、次のとおりです。第一に、労働者からの請求について、労働時間の認定、管理監督者該当性、固定残業代の有効性、消滅時効といった論点を検討し、支払うべき金額を確定させることです。第二に、株式譲渡契約の請求期間を確認し、期間内に売主へ通知を行うことです。第三に、労働者との解決の内容が売主への請求に影響しないよう、契約に定められた手続を履践することです。第四に、他の従業員への波及の見込みを把握し、対象会社としての方針を定めることです。
労働者に対する対応と売主に対する請求とは、別の相手方に対する別の手続ですが、事実関係は共通しています。一方の手続における主張が他方に影響することがありますので、双方を見通した対応が必要となります。
具体的な進め方は、労働時間の記録の状況、契約の定め、売主の対応等により異なり、当事務所が個別案件を通じて蓄積してきた実務上のノウハウにも属するため、本記事では詳細を開示しておりません。
よくあるご質問
質問1 前の経営者の時代の未払です。会社が払わなければならないのですか。
株式の譲渡では法人格が変わりませんので、対象会社の債務としてそのまま残ります。労働者に対する関係では、対象会社が支払義務を負います。売主に対する請求は、これとは別の問題です。
質問2 5年分を請求されています。そのとおりですか。
賃金請求権の消滅時効については、労働基準法第115条に定めが置かれていますが、同法附則第143条第3項により、当分の間は3年とされています。請求の対象となる期間を確認いたします。
質問3 課長職には残業代を払っていませんでした。
管理監督者に該当するか否かは、役職名によって判断されるものではありません。職務の内容及び権限、勤務時間の裁量、待遇といった要素により判断されます。該当しない場合には、割増賃金の支払義務が生じます。
質問4 売主に請求するには、まず何をすればよいですか。
株式譲渡契約書の補償条項を確認し、請求期間を特定してください。期間内に書面により通知することが最優先です。金額が確定していなくても通知を行います。
質問5 他の従業員にも波及しそうです。
同種の請求が生じ得る従業員の範囲と金額の見込みを把握することが必要です。あわせて、将来に向けた労務管理の是正を行うことになります。売主に対する通知においても、波及の可能性を記載しておくことを検討いたします。
弁護士法人M&A総合法律事務所へのご相談
弁護士法人M&A総合法律事務所(代表弁護士 土屋勝裕。東京都港区虎ノ門)では、株式の取得後に生じた未払割増賃金の問題についてご相談をお受けしております。
- 電話番号 03-6435-8418
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- 土曜日、日曜日及び祝日も受付いたします
- ご相談は事前予約制です
ご相談の際に、労働者からの請求書面、株式譲渡契約書、開示別紙、就業規則、賃金規程、賃金台帳、労働時間の記録、デューデリジェンスにおける質問と回答の記録をご用意いただけますと、検討が早く進みます。
結果は事案ごとに異なります。本記事の記載は一般的な説明であり、特定の結果を保証するものではありません。
本記事の根拠条文
労働基準法 第32条(労働時間)、第37条(時間外、休日及び深夜の割増賃金)、第41条第2号(監督又は管理の地位にある者)、第104条(監督機関に対する申告)、第114条(付加金)、第115条(時効)、附則第143条第3項(賃金請求権の消滅時効を当分の間3年とする経過措置)
賃金の支払の確保等に関する法律 第6条(退職労働者の賃金に係る遅延利息)
労働審判法 第1条(目的)、第5条(労働審判手続の申立て)、第15条第2項(期日の回数)
民法 第166条第1項(債権の消滅時効)、第404条(法定利率)、第415条第1項(債務不履行による損害賠償)、第419条第1項(金銭債務の特則)
会社法 第423条第1項(役員等の会社に対する損害賠償責任)
判例法理 管理監督者該当性の判断及び固定残業代の有効性の判断については、判例法理によります。
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